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2022-01-13

『「させていただく」の使い方』(椎名美智)

角川出版の『「させていただく」の使い方』を近所の書店で見かけたので、買って読んでみました。「させていただく」という表現をよく見聞きするようになったのが何時頃からだったのか覚えていませんが、ちょっと使いすぎではないかと感じています。


著者は歴史語用論を専門としているとのことですので、本書の主題は「させていただく」という表現の言語学的な分析です。社会的な関係を論じようとしているわけではないので、本書の全体的なトーンはニュートラルだと感じました。


この表現に限らず、日本語のあらゆる表現は変化していきます。その変化に対して「最近の言葉は乱れている」として拒否感を表すことがよくあります。その良し悪しはともかく、 言葉に対する感覚は研ぎ澄ましていこうと考えています。

2020-12-24

「御名前様」は「御御御付」である

文豪として著名な夏目漱石の作品に『吾輩は猫である』があります。明治時代に書かれたので文体が古風ですが、日本語文法的には「吾輩」=「猫」という関係が成り立っています。そう意味で標題が「御名前様」=「御御御付」という事ではありません。しかし意識上の問題としてはイコール記号で結び付くのではないかと思います。


まず後半の「御御御付」とは「味噌汁」のことです。語源については諸説あるようですが、丁寧さを示す「御」が次第に重複していったようです。


さて前半の「御名前様」ですが、何時頃からか不明ですが、店頭などで名前を尋ねられる時に「御名前様を云々」と言われる経験をするようになりました。「名前」に「御」がついているだけでも十分に丁寧だとおもいます。ところが「御名前」という表現が当たり前になってしまうと、敬意が不足していると感じるようになったのでしょう。そこで何にでも「様」をつけておけば丁寧になるだろうという発想があるのかもしれません。


随分前のことになりますが、大学受験の際に受験会場の構内アナウンスで「受験生様」と呼びかけられた時には吃驚しました。最近では病院によっては「患者様」と呼びかけるところもあるようです。また施設でも「利用者様」のような表現をしているようです。


何にでも「様」をつければ良いというものではないだろうと(個人的には)感じているのですが、このような傾向は今後も続いていくのではないかと思います。将来は「様」だけでも足りなくて、もっと大仰な接辞がつくかもしれません。


現時点では、「御名前様」という表現はされるのですが、さすがに「御電話番号様」とか「御住所様」のような表現は出現していないようです。しかし、これも登場するのは時間の問題かもしれません。

2020-11-10

鼻にする

人間の頭部の諸器官を使った慣用表現があります。

「口にする」には「語る」という意味があります。

「目にする」には「見る」という意味があります。

「耳にする」には「聴く」という意味があります。

ところが「鼻にする」という表現はありませんが、なぜでしょう。


「鼻につく」とか「鼻にかける」という表現はありますが、「嗅ぐ」という意味はありませんし、どちらも良い意味ではありません。


「鼻」だけ別扱いなのは日本語だけかと思ったら、英語にも同様な側面があるようです。『"Secrets" of England』(Colin Joyce、ISBN978-4-14-035163-5)の「Chapter 7 A Sniffer's Guide to Japan」では次のような事が書かれています。

But it is rare to hear people talk about the things they have smelled.


ここでは英語に「鼻」に関わる慣用表現が無いと書いているわけではありませんが、「鼻」というのは扱われ方が違うことがわかります。 

2020-10-06

変体漢文とJapanese English

放送大学教養学部で2020年度第2学期は「漢文の読み方('19)」 (宮本 徹・松江 崇)を受講することにしました。そこで図書館に行き、参考になるような書籍を探し、『漢文と東アジア―訓読の文化圏』(金 文京)を借りてきました。日本語を表記するために漢字は欠かせませんし、中学高校でも漢文の授業があります。漢文を読むために訓読がありますが、よく考えると「訓読」は日本だけではなく、漢文の影響を受けた東アジアでは(訓読とは呼ばないとしても)同様のことがおこなわれたハズです。


学校で習う漢文の時間では軽く流してしまうような事柄についても、本書では実例を踏まえて詳述されており、とても興味ぶかく読了しました。


「第3章 漢文を書く/2 さまざまな漢文」の192~194頁では「変体漢文の分類」として、変体漢文が生じる理由として4つに分類されています。

  1. 書き手が未熟で、規範的漢文を書くつもりが、変則的になってしまう。
  2. 母国語の語法が無意識に反映される(これを日本では「和習」とか「和臭」と呼ぶようです)。
  3. 母国語の語法を意識的に反映させる。
  4. 漢字を表音的に用いて自国語を記述する。

変体漢文というのは規範的な漢文に対する用語です。日本人が漢文だと思っているのは古代中国語に相当しており、(本書によれば)近現代の中国語とは違うもののようです。

それはともかく、変体漢文が生じる理由は、今日において日本人が英文を書こうとしたときにも生じているのではないでしょうか。1番目の理由のように、「書き手が未熟で、規範的英文を書くつもりが、変則的になってしまう」ことを「ブロークン・イングリッシュ」と呼ばれています。2番目の理由のような「和習や和臭」のことを「Japanese English」と呼ばれていると思います。

いつの時代でも、どのような外国語でも、生じる現象は同様であるようです。

2020-09-12

stage

 Japan Times Alphaの2020年8月21月号に掲載されたコラム「Odds & Ends」(James Tschudy)の話題は「stage」でした。このコラムは毎月テーマを決めていて、8月のテーマは「Japanese English」です。日本人は英語だと考えているけど、ネイティブが理解している意味から外れており、コミュニケーションの障害にもなるものです。


コラムでは、ミュージカルを観にいった女性から「It was a wonderful stage.」と言われたという逸話が語られています。日本人が使う「stage」というのは、英語ネイティブからすると理解に苦しむので、本来の使い方についてコラムで語られます。


著者は、何故日本人がミュージカルなどの演劇のことを「stage」と呼ぶのかわからないと書いています。

I wonder how the Japanese-English meaning got started.  It might have come from "stage play," but I don't have any idea.  My dictionary isn't any help either.


これは私見ですが、日本人が英語で「stage」を使ってしまうのは、日本語ではミュージカルなどを(「演劇」と呼ぶこともありますが)「舞台」と呼ぶからなのではないでしょうか。日本人に限らず、外国語を使う場合(日本人が英語を使う場合もそうですが)母語の影響は無視できません。日本人がミュージカルを鑑賞して「素晴らしい舞台だった」と感想を述べるのを、英語で「It was a wonderful stage.」と直訳してしまったからではないかと思うのですが、どうでしょうか。

2020-08-14

「全粒粉」を「ぜんりゅうふん」とも読むのは何故?

 ウィキペディアで「小麦粉」を引くと、各種類の読み方が次のように書かれています。

  • 強力粉(きょうりきこ)
  • 中力粉(ちゅうりきこ)
  • 薄力粉(はくりきこ)
  • 浮き粉(うきこ)
  • 全粒粉(ぜんりゅうこ、ぜんりゅうふん)
  • グラハム粉(ぐらはむこ)
  • セモリナ粉(せもりなこ)


ここで「粉」を多くは「こ」と読みますが、「全粒粉」だけは「粉」を「ふん」とも読むようです。何故なのでしょう?


熟語には「重箱読み」とか「湯桶読み」のように、音読みや訓読みで統一されていない例外的な読み方があります。それが関係しているのかとも思いましたが、「グラハム粉」や「セモリナ粉」のように外来語と組み合わされている場合でも「粉」が「こ」と読まれていることを考えれば、読み方の問題ではないような気がします。


「全粒粉」の読み方も「ぜんりゅうこ」だけで良さそうなのに、何故「ぜんりゅうふん」も許容するのでしょうか。読み方が二通りあると誤解されることがあるので、厄介です。例えば「ぜんりゅうこ(全粒粉)の・・・」のような発言をすると、「『ぜんりゅうこ』って何ですか。もしかして『ぜんりゅうふん』の事を言っているんでしょうか。」のような対応をされる場合があるのです。

2020-07-07

英語の俳句

俳句は日本語における伝統的な韻文ですが、英語で俳句を詠むこともあるようです。これはどういうことなのでしょうか。

俳句以外にも韻文はありますが、まずは俳句に限定して考えてみます。俳句としての形式がいろいろありますが、音の並びとして「五七五」になっています。これは万葉集以来に日本の韻文の伝統を踏まえているはずです。

例えば、有名な俳句「古池や蛙飛び込む水の音」の英訳は(例えば)「Old pond - frogs jumped in - sound of water」(Lafcadio Hearn (1898))があるようです。この英訳は直訳のように感じますが、それについてどうこう言おうというのではありません。

英語にも独自の韻文がある筈です。俳句において、日本語を英語に置き換えたとしても、日本語のリズム(韻文なのですから)や、言外の常識とか暗黙の了解などを、他の言語(英語など)に置き換えるのは、至難の業ではないかと思うのです。出来ない訳ではないと思いますが、容易とは思えません。

おそらく逆もそうでしょう。英語の韻文を日本語訳してみたところで、英単語の綴り上の類似さや、撥音上の相似さを、興味深く工夫して韻文にしても、日本語で同じように表現できるわけではないと思います。日本語的に韻文になったとしても、それは元の英語の韻文とは別の作品になってしまうのではないかと思います。

俳句などの英訳を否定しているのではありません。その困難さを考えているところです。

日本語の古典文学を英訳しようとする試みは数多くあります。俳句のような、極限まで表現を切り詰めたものより、『源氏物語』のような物語文学の方が、英訳しやすい(それでも難しさはのこるでしょうが)のではないかと思います。

2020-06-09

お好み焼き(Japanese pizza)

The Japan Times on Sundayの2020年2月16日号に掲載されているエッセイ「Big in Japan by Mark Schreiber」のタイトルは「New outlets weigh whether new virus will affect Olympics」でした。その本旨から離れますが、文章の最後付近に次のような記述がありました。
127,000 tons of frozen processed foods such as okonomiyaki (Japanese pizza) and fried chicken parts (annual figures for 2018).

この文を見て気付いたのは、「お好み焼き」を「Japanese pizza」と訳していることです。

翻訳において訳語の選択は難しい問題だとは思います。世界中どこにでもあるようなものであれば、日本語で使われているある単語を英語で使われているその単語に置き換えることができるでしょう。しかし日本独自のもの(ここでは「お好み焼き」のようなもの)であれば、対応するものが英語圏に存在しないので、ローマ字(「okonomiyaki」のように)するしかないでしょう。多分それでは英語読者にとっては何のことか分からないだろうから「Japanese pizza」のように補足するのでしょう。「Japanese pizza」が適切な補足になっているかどうかは議論のあるところかもしれませんが、そのような表現で説明するという発想は新鮮でした。

2020-03-03

流行している「させていただく」という表現

「させていただく」という表現が多用(乱発?)されています。この表現を使っておけば、丁寧に見える、謙虚と思われると考えているのかもしれません。そういう一面はあるかもしれませんし、うまく使えば文章が締まるでしょう。

問題は使いすぎです。

そもそも「させていただく」という表現は誤用だから、使うこと自体が間違っているという意見もあるかもしれません。その意見も一理あるとは思いますが、言葉はルール通りにはいかないものです。物理法則と違い、言葉のルールは現状を追認する方向で決められるものです。

「させていただく」に限らず、いかに気に入った表現であろうとも、何かの表現は使いすぎるのは避けるべきだと思います。例えば料理における隠し味(もしくはスパイス)のようなものではないでしょうか。隠し味が料理を引き立てるとしても、入れ過ぎれば、むしろ入れない方がマシだったとなりがちです。スパイスが表に出過ぎた料理は、もはややり過ぎでしか無いと思います。辛さを数十倍にした「激辛カレー」というものが時折話題になりますが、それはカレーというより、辛いだけでしかない謎の食べ物でしかないでしょう。

この「させていただく」という表現を気にしている人は多いようで、Web記事「「させていただきました」はムダな敬語。シンプルに伝わる文章のダイエット」を見つけました。このような記事は他にもありますが、そのわりには廃れることはなさそうです。

その表現を使う本人として、良い表現だとは思っていないものの、そのように表現しておけば無難だという意識が働いているのではないかと思います。

2019-09-30

プライド≠pride

日本語では外国由来の単語をカタカナで表記しています。しかしその外来語が具体的な事物であるならいざ知らず、抽象的な概念を表している場合にはカタカナで表記される外来語が元々の国での意味と同じかどうかは分かりません。またその外来語を使って発信している側も、その外来語を受け取る側も、はたして意味を同じように認識しているでしょうか。

例えばカタカナで「プライド」と表記するのは、英単語「pride」のことです。この単語は文中で「誰々はプライドが高いから云々」のように使われます。この外来語を使う側も受け取る側も、なんだか文意がわかったような気になりますが、本当にわかっているでしょうか。

外来語「プライド」ではなく日本語で表現するなら「自尊心」という概念があてはまります。ここで「自尊心」という抽象概念が何を指しているのかという問題が派生しますが、それは別途考えることにして、ここでは踏み込まないことにします。

外来語「プライド」の日本語表現はそれだけではありません。英単語「pride」を日本語に直接的に訳語にあてはめただけでなく、外来語「プライド」として意味が派生したものとして「選民意識」という概念もあるのではないかと考えています。

「自尊心」と「選民意識」とでは、受け取る側からすれば相当ニュアンスが異なります。しかし発信側が外来語「プライド」として表現しただけでは、どのような意味で語っているか、実際のところわかりません。

普段の会話では、ここまで厳格に考える必要はないでしょう。でも曖昧さを残す余地がある表現を(もしかすると意図的に)使うのは、コミュニケーションを壊す要因になると思います。

2019-05-03

「TCPは以下の方法で信頼性を保証する。」

詳解TCP/IP Vol.1 プロトコル』(新装版第1刷、2000年、ピアソンエデュケーション)の「第17章 TCP:トランスミッション・コントロール・プロトコル」の256頁に「TCPは以下の方法で信頼性を保証する。」と書かれています。その後に、「信頼性を保証する」ための具体的な内容が列挙されていますが、ここで書こうとしているのは、そこではありません。

何時からなのか不明確ですが、「担保する」 という言葉が多用されていると感じています。同じ感覚を持つ人もいるようで、Webで次のような情報が見つかります。
1番目の情報は大阪教育大学の「学大国文」第45号(2002年)に掲載されたものを著者自身でHTMLにして公開しているものです。2番目の情報は2007年2月2日です。違和感がもたれるようになって、もう20年くらいになるようです。

「担保する」という言い方が21世紀になって登場した新語とは考えていません。法律関係では以前から使われていた言い方だという情報を得たことがあります。また「担保する」という言い方しか考えられないような状況で使われるなら、それは問題ではありません。

気になって仕方がないのは、他の言い方(例えば「保証する」など)があり、そちらの方が適切と思われるのに、なぜか「担保する」が使われる場合です。冒頭にあげた例を使うと、今日の流行にのれば「TCPは以下の方法で 信頼性を担保する。」と書かれるところでしょう。

手持ちの辞書『明鏡国語辞典 携帯版』(初版第3刷、2005年)では、次のようになっています。
  • たん-ぽ【担保】〔名〕債務者が債務を履行しない場合、その債務を弁済を確保する手段として債権者にあらかじめ提供しておくもの。
  • ほ-しょう【保証】〔名・他サ変〕(1)確かであると請け合うこと。
この辞書は携帯用なので、大辞典のように詳しい記述がありません。その代わり、主として用いられる語義が掲載されていることが期待できます。そこで語義を見ていくと、「保証」の方はサ変(「保証する」のように使われる)も考慮されていますが、「担保」は単なる名詞です。日本語では大多数の名詞はサ変動詞になるので、そういう意味では「担保する」もアリなのでしょうが、辞書ではサ変は考慮に入っていません。

「担保する」という言い方が気になるのは、用語の厳選という意味での推敲が不十分ではないかと感じられるからです。「担保する」という言い方が何故にこれほど広まってきているのか分かりませんが、この言い方をすると「なんだかよくわからないけど、難しそうな言い方で、カッコ良さそう」と思われているのではないかと、邪推しています。文脈によっては、「保証する」とか「確保する」の方が適切かもしれないのに、なんでもかんでも安易に「担保する」で済ませてしまっているのではないかという、疑いを持ちます。

この問題は、いつの時代も世の中を騒がせている「日本語の誤用」とはまた違う問題ではないかと思います。「担保する」は不適切かもしれませんが、少なくとも「誤用」とまでは言えないと思います。問題は、いかなる経緯で「担保する」が広まってしまったのか、ということです。誰かが「『担保する』を使おう運動」の旗を振っているということでもないでしょうから、些細な事例ではありますが、社会の変化を考えるための重要な素材なのかもしれません。

2019-02-02

網野善彦「日本の文字社会の特質」

網野善彦著作集の第15巻に「日本の文字社会の特質」が収録されており、その「1 日本の文字社会の特異性」に次のような記述があります。
よく知られている小噺に、明治になって上京した薩摩人が言葉が通ぜず、謡曲の詞章で話してようやく用を足しえた、といわれていることや、(後略)
これと同じことを、司馬遼太郎の作品の中でも書かれていたような記憶があります。

そのようなことを最初に司馬遼太郎の作品で読んだ時には、(司馬遼太郎は小説家なので)勝手に創作したのかとも思いました。しかし同様のことを網野善彦が書いているということは、半ば常識だったのでしょう。

しかしながら、裏付けをとるのが難しいとも思います。「よく知られている小噺」というのが何なのか明らかではないですし、出典(というものがあれば、ですが)は何なのでしょうか。

本当に「明治になって上京した薩摩人」の話だと思ってよいのか、それとも幕末に京や江戸で活躍した「薩摩人」のことなのか、このあたりも明らかではありません。もしかすると、幕末よりも以前のことなのかもしれません。

そのような(言葉が通じないから謡曲の詞章で話したという)事情が、当時の何かの日記とか、手紙とか、同時代史料に現れていると、もう少し信憑性が高まるのですが。何か無いでしょうか。

2018-04-15

日本人姓名の英語表記と欧米人姓名の日本語表記

日本人の姓名は、先に名字がきて、後に名前が続きます。例えば鈴木という名字で、名前が太郎なら、鈴木太郎となります。しかし英語では、先にFirst Nameがきて、後にFamily Nameが続くことになります。だからTaro Suzukiのように逆順にします。日本人の名前を英語だからと言って逆順にするのはおかしいとの主張もあるようですが、主流にはなっていません。中学生が英語を学び始めるときには、My name is Taro Suzuki.のように教わるのが(良くも悪くも)当たり前になっています。

一方で、欧米人の名前を考えてみましょう。例示するのは何でも構わないのですが、例えばMicrosoftの創業者であるビル・ゲイツを考えてみましょう。正確にはWilliam Henry "Bill" Gates IIIとなるようです。First NameがWilliamで、Family NameがGates、通称Billというところでしょうか。彼が日本語を話せる(片言ではなく)のか否か不明ですが、仮に話せるとしましょう。上述した「鈴木太郎」が英語では(英語の習慣に合わせて)「My name is Taro Suzuki.」と自己紹介するように、「Bill Gates」は日本語では(日本の習慣に合わせて)「私の名前はゲイツ・ビルです。」と語っても良いところですが、そうはなりません。

何故でしょう?

日本人の姓名を、英語では英語の習慣に合わせて逆順にしています。しかし欧米人の姓名を、日本語で語る時でも日本の習慣に合わせることはなく、元々の順番のまま変わりません。

日本人の姓名でも歴史上の人物だと逆順にせず、「徳川家康」なら「Tokugawa Ieyasu」となるようです。しかし現代人だと、著名人であっても、例えば「小泉純一郎」は「Junichiro Koizumi」のように逆順です。

このような状況は、今更変えられないのでしょうけど、スッキリしない気持ちもあります。

2017-09-02

Japanese English

The Japan Times STで人気のコラム「ODDS & ENDS」の8月の話題は「Japanese English」でした。日本で独自の意味合いを持ってしまった英単語などについて語られています。

月間テーマである「Japanese English」は、ニュアンスは理解できるのですが、日本語では何と訳したらよいのでしょう。ただ片仮名にするだけの「ジャパニーズ・イングリッシュ」とするのは御免蒙りたいです。パソコンなどIT関係の文書がこういう調子で、英単語をカタカナ表記にしただけの文章が溢れています。曰く「オブジェクトをデリゲートして、次に・・・」のような感じですが、この手の(日本の文字を使用した)文章を読むくらいなら、辞書片手に英文を読んだほうがマシです。もっとも「算譜」とか「作譜」と訳するのも流石にどうかとは思っているのですが。

さて話題を戻して「Japanese English」の和訳ですが、長々と言えば「日本独自の変化を遂げた英語(表現)」とでもすれば意図が通じるかもしれませんけど、長いですね。コラムの中では何度も使われるので、もっと簡潔な表現にしたいところです。

英辞郎では「日本語訛りの[日本人風の]英語」と訳されています。意味はこういう事ですが、簡潔とは言えません。

ここで発想を飛躍させて、「Japanese American」を「日系アメリカ人」と訳すのですから、「Japanese English」を「日系英語」とするのはどうでしょう。これが良いというわけではありませんが、一つのアイディアです。違和感を感じるかもしれませんが、その違和感の一部は、見慣れないことからくるものであって、見慣れたら気にならなくなるかもしれません。もっと本質的な違和感もあることでしょう。それは見慣れたところで解消されるものではありません。

なにか良い和訳はないものかと思います。

2017-03-30

食べ放題を意味する「バイキング」は大和言葉の一種なのか

『ナショナル ジオグラフィック 日本版』の2017年3月号の特集は「バイキング 大海の覇者の素顔」です。バイキングについては漠然としたイメージしかなかったので、この記事を読むと詳しく学べるのではないかと期待しています。特集によっては、スカパーで視られる「ナショナル ジオグラフィック チャンネル」でも雑誌記事と連動した番組が放送されることがありますが、今のところ関連番組はなさそうです。

日本を含めた世界中で「バイキング」と言ったら8世紀前後に大暴れした集団を意味していますが、日本では食べ放題形式の食堂を「バイキング」と呼んでおり、武装集団としての「バイキング」より食べ放題としての「バイキング」の方が認知度が高いのではないかと思います。

そもそも日本で「バイキング」が食べ放題形式の食堂という意味になっているのかという理由について、ウィキペディアでは次のように説明しています。
日本語では「バイキング」と称されることがある。日本初の食べ放題レストランの店名が「バイキング」であったことに由来する。

ウィキペディアによると、食べ放題形式のことを英語ではフランス語風の「buffet」とか北欧風の「smorgasbord」と呼ぶようです。

日本語では外国由来の単語をカタカナ表記にすることが多くあります。その方式で行くと、食べ放題形式は「ビュッフェ」もしくは「スモーガスボード」となるところです。しかし「ビュッフェ」と言えば「立食形式」を日本ではイメージするでしょうし、「スモーガスボード」にいたっては一般的な認知度は低いのではないかと思います。

日本語独自の「バイキング」というのは英単語の「viking」の訳語ということではなく、見た目は外来語に似ていますが、外国由来の訳語でも何でもなく純粋な日本語だと思います。だから英会話で食べ放題に関する話題をしようと考えた時に「viking」という語を使うのであれば、その英文が表面的な形式として完璧だとしても、意味的には非英語的表現でしかないでしょう。

要するに「食べ放題」を意味する「バイキング」は日本語でしょう。大和言葉とか和語とか言うと、長い歴史を踏まえている訳ではないでしょうから、言い過ぎかもしれませんが少なくとも外来語ではありません。

現在の日本語を構成する単語は、古くからの大和言葉に由来する語、中国から伝来した漢語に由来する語、古くはポルトガル等であったり幕末以降は欧米であったりする国々に由来する外来語などから構成されています。ここで「バイキング」という単語は、大和言葉とは言えないし、中国伝来でもないし、もちろん欧米由来でもありません。あえて言えば多分に勘違いに由来する現代日本語です。

 一見すると外来語のようであって、実は日本独自の単語というのは、他にも事例があります。英語の「stapler」を日本語では「ホチキス」と呼ぶ事例であるとか、紙を複写する意味の「copy」を「ゼロックス」と呼ぶ事例などが思いつきます。

おそらく世界中のどの言語にも同様の現象が存在しているだろうと思います。自国以外から取り入れた単語が本来の意味と全く関係のない意味に使われる事例は日本に限ることではないと思います。

2016-09-11

「~だそう。」を連発する旅番組に違和感

テレビ番組のジャンルのひとつに旅番組があります。著名な芸能人が(実際に行くか、吹き替えかは別として)現地を訪れて名所などを紹介したりする番組です。日本国内の場合も外国の都市の場合もありますが、自分で行ったことのある土地だったりすると懐かしさもあり、時々視ています。

レポーターを務める芸能人が女性の場合に多い気がしますが、その土地を紹介するときに「○○は△△だそう。」という言い方をすることがあります。省略しないで言えば「○○は△△だそうです。」となるところでしょう。旅番組の根本に関わることになりますが、そもそも他所の土地には見られないその土地独自の珍しいものを紹介することが多くなるので、自然と伝聞を意図する「~だそうです」という言い方が多くなるのは已むを得ません。

「ここで採れる何々は今が一番おいしいのだそう。」、「ここから見る何々は素晴らしい景色なのだそう。」、 「~だそう。」、「~だそう。」と最初から最後まで「だそう」が続くといささか食傷気味です。語尾を「だそう」で止めるのは省略形式ですから、いろいろな語尾を使う中に混ぜて使う分には別に何とも思いません。むしろ上手く使えばスパイスの効いた表現として生きてくると思います。

勘弁してくれと感じるのは、番組の最初から最後まで「~だそう。」が続くことです。全く同じことを感じているのではないと思いますが、Webでは「「○○だそう。」という使い方に違和感」という意見がありました。

違和感云々とは別問題ですが、次のような意見があることを思い出しました。平成28年第1学期に放送大学大学院で受講した「国文学研究法(15)」の印刷教材(「15 論文の文体」より)ではこのように書かれていました。
「だ」「である」の常体で文章を書く場合に、不慣れだと、文末表現が単調になってしまう傾向がある。ほとんどの文章の末尾が「だ」「だ」「だ」、「である」「である」「である」などというように、同語反復となり、単調になりがちである。
これは研究論文を書く場合の心得に関することなので、テレビ番組のレポーターの発言とはそもそもの対象が異なりますが、その根本となる発想は同じではないでしょうか。

2016-09-09

兄弟姉妹の呼称

現在通用している言語が幾つあるのか詳らかではありませんが、いろいろな観点から分類して特徴や起源を探ろうとする試みが続いています。その成果がどうなるかとは別問題として、ある言語とその言語を使う人々との相互作用に注目してみます。

「言語が思考を規定する」という考え方があります。その是非はともかく、頭の中にある言語化される前段階のイメージを実際に言語を通じて表出する際には、特定の言語の差異に直面することになります。ここでは具体的に兄弟姉妹の呼称について考えてみます。

日本語であれば、(1)相手の年齢の上下と、(2)相手の性別の2つを基準にして、以下の4通りで表現します。これは一見すると合理的に思えるので、世界中の言語が(どのように表記されるのかは別問題として)同じように分類していると考えてしまいがちです。
自分より年上 自分より年下
相手が男性
相手が女性

ところが英語やスペイン語などでは、(1)相手の性別を基準に区別しているだけで、自分との年齢の上下関係で呼称を使い分けていません。
英語 スペイン語
相手が男性 brother hermano
相手が女性 sister hermana
余談になりますが英語とスペイン語を見比べると、スペイン語の方が文法的な原則を厳守しているような印象をうける単語になっています。

さらにハングルでは、(1)相手の年齢の上下、(2)相手の性別、さらに(3)自分の性別という3つの基準で表現を変えており、しかも(4)年下の相手の区別はしないという(日本語からすると)複雑な体系になっています。
自分より年上 自分より年下
自分が男性 自分が女性
相手が男性 오빠 동생
相手が女性 누나 언니

どの言語であっても母国語として用いていれば、それで何の不自由も感じていないはずです。不自由だと感じるのは、母国語とは体系が異なる他国語に接した時です。例えば日本人が英語を母国語とする相手に「弟」を表現したい場合に「brother」としただけでは落ち着かないので「younger brother」のように表現して年齢の上下を区別しようと(無意識かもしれませんが)します。相手からすれば、英語という母国語の体系をベースにした発想をするため、わざわざ「younger」をつける相手の意図を訝しむかもしれません。

これが「言語が思考を規定する」といわれることですが、言語と思考は互いに影響し合うため、どちらが卵でどちらが鶏かという訳でもありません。ただ少なくとも言語が既にそうなってしまっていて、その言語を使う場合の発想もそうなってしまうという事実があるだけです。

言葉は月日が経つと変わっていくので、ある言葉遣いが正しいとか間違っているという判断の基準をどこにおくのかは難しいところです。将来は兄弟姉妹の呼称の分類基準が変わっていくかもしれません。方向性としては英語やスペイン語のように単純化する方向に変わっていくような気がしますが、それはとてつもなく長い年月がかかるのではないでしょうか。

2016-08-08

何々「というところ」という表現

ウィキペディアの「北海道の難読地名一覧」によると北海道の小樽市には文庫歌というところがあるそうです。現在では地名としては残っていないようですが場所的には小樽市塩谷2丁目付近のようです。難読地名は日本各地にあり、大阪府の放出(はなてん)も有名です。ただし難読であっても地元の人からすれば難読でもなんでもなくて、普通に読めていることでしょう。

ここで注意したいのは次のような表現を選択するときの 心理的な動向です。
  1. 北海道というところがあります。/北海道では××です。
  2. 北海道には小樽市というところがあります。/北海道小樽市では××です。
  3. 北海道小樽市には文庫歌というところがあります。/北海道小樽市文庫歌では××です。
これらの表現を考えると最初の2例は違和感があるのではないでしょうか。「何々というところがあります」という表現を選択するときには「その地名は既知ではない」という心理が働いているはずです。だから「北海道」とか「小樽市」のような日本では誰でも知っているような地名に対して「というところ」と表現することは、まずないでしょう。しかし(難読である否かは無関係として)極めて限定された地域の中でしか知られていないような地名であれば「というところ」という表現を用いるのがむしろ普通で、それをあたかも日本中で既知であるのが当然のように表現されたら、引っ掛かるものがあるでしょう。

手持ちの国語辞書(『明鏡国語辞典』携帯版)を引いてみましたが「というところ」という表現を説明している箇所は見つけられませんでした。見出し語「い・う【言う】」では語義6の中で「(ア)《「と―」の形で》下の語で上の語の内容を説明するのに使う。」とありました。「文庫歌というところ」の場合なら「ところ」という下の語で「文庫村」という上の語を説明していると考えられるということになります。ここにおける語義の説明では心理的側面については触れていません。

以上長々と「というところ」という表現に拘ってきたのは、この表現には会話をおこなう間での共通認識を明らかにするリトマス試験紙となるのではないかと思ったからです。会話に登場する地名に対して「というところ」と表現する人は、その地名を含む周辺に対して馴染みがないことを言外に示していると言えないでしょうか。

2016-07-03

「Here's an examole.」の和訳

The Japan Times STで連載されているコラム「ODDS & ENDS」(James Tschudy)を読んでいると、月々の話題の具体例を示すために「Here's an example.」 のような文がよく出てきます。これは日本語で意をくむと「例を示しましょう」ということでしょう。もっと直訳的に和訳して「例はこれです」とか「これが例です」でも、日本語として全く間違っているということはないと思います。

逆に日本語で「例を示しましょう」と言いたい場合、英語に堪能なら多くの言い方が思いつくのかもしれませんが、英訳として「Here's an example.」に辿りつきたいとします。学習者に対して「日本語を英単語に置き換えても、英文にはならない(かもしれない)」とか「英作文ではなく英借文をせよ」とアドバイスされることが多くあります。この場合なら、日本語で言いたい「例を示しましょう」から、「これが例です」という日本語に変換して、そこでおもむろに「Here's an example.」を導き出すというステップを踏むことが求められているのでしょうか。

日本語は助詞を駆使すれば語順は何とでもなる言語ですし、これに対して英語は語順が重要な言語です。先に示したように、日英対訳を経由した英借文手法を求めるのであれば、日本語で考えた自分の言いたいことを、如何にして日英対訳における日本語文に繋げるかという技術が必要になります。こういうことを常に意識していると、素早く英文が出てこないので、次第に英訳しやすい日本文が思いつくような脳に変化してくるのではないかと思います。

単純な和文英訳に限らす、日本語には日本語の、英語には英語の「発想方法」があり、言葉はその発想を表現しやすいように出来ているはずです。2012年4月6日号の(当時の)週刊STには「English across Cultures」という本名信行さんの連載があり、次のように語られています。
 一つ例を挙げましょう。ある会合に、出席する予定だった人が来ていなかったとします。後日、その人に尋ねるとき、日本人は「私はあの会合に行きましたが、あなたはどうしてこなかったのですか」と言います。これを英語にすると、"I went to the meeting.  Why didn't you come?" となります。ところが、ネイティブスピーカーは、こういう状況では、"I was there.  Where were you?" というような言い方をします。ネイティブスピーカーは動きではなく、存在としてとらえるのです。
英語を話すときには、英語らしい表現にしたいと思います。その方が相手に伝わりやすいと思うからです。日本語的な発想を英訳した文章でも、相手は理解してくれるでしょうけど、そのときに相手の頭の中は普段とは違う部分が全力で動いているはずです。これは逆の場合を考えてみれば納得できるでしょうか。例えば日本語を話せる英米人が、英語的な発想を日本語にした文章を話したとすると、日本語だから言っていることは聞き取れても、言いたいことを追いかけるのに疲れてしまうのではないでしょうか。

ここで述べたことを踏まえて英語を勉強すべしとは主張しませんが、意識の片隅には置いておきたい考え方だと思っています。

韓国語の敬称としての「-님」

小学館『朝鮮語辞典』(2001年9月10日初版11刷発行)では、「-님」の語義として「《人名・官名・職名などや、一部の名詞に付いて》尊敬を表わす:・・・さん、様、殿」とあります。役職のある人などを呼ぶ場合に、日本語では「○○社長」とか「××先生」とするのが普通ですが、韓国語では「○○사장님」とか「××선생님」とするそうです。

日本では役職をつけるだけで敬意を示すことになるので、よほど特別な感情を持っているのでない限り「様」を追加することはないと思います。また現代日本語の敬語の考え方では二重敬語は不可とされ、役職名に「様」をつける必要はないと教えられています。

韓国では役職に「-님」をつけるのは当然とされるようで、むしろ日本風に「○○사장」のように「-님」を抜くと(大袈裟に言えば)場が凍り付くそうです。ただし韓国のネイティブ感覚としては、「-님」が必要な役職と不要な役職があるのかもしれませんし、「-님」をつけなくても良い状況とつけなければいけない状況があるのかもしれませんが、非ネイティブである日本人にはわからない領域です。

昭和初期の日本語の言語感覚の一例として「のらくろ」(田河水泡) を参照すると、「連隊長殿」とか「少尉殿」のように、当たり前のように職名や階級名に「殿」がついている事が確認できます。もしかすると日本語においても、かつては役職に「様」などをつけるのは当然とされていた時代があったのかもしれません。

歴史的経緯はともかく、日本と韓国における「様」と「님」の有無の必要性について、文化的背景を理解した上で相手側の発言を理解したいと僕は考えています。そうでないと、一方的に自国の習慣を絶対視し、相手側の文化を無視した独断をおこなうことになってしまうでしょう。

外国の言葉を学ぶなら、文法規則を表面的に記憶するだけではなく、文化的背景も学ぶようにしたいと思います。