2016/05/10

現代物理科学の論理と方法('13)

放送大学大学院で平成28年度第1学期に受講している科目のひとつが「現代物理科学の論理と方法('13)」です。過去には電子工学研究科を修了したこともあるので挑戦してみましたが、かなり大変です。過去に習ったことは殆ど忘れているので、間もなくの通信指導の提出や、学期末の単位認定試験は厳しい予想です。

諦めるのは簡単ですが、厳しくても何とか講義についていきたいと思います。印刷教材を読んだり、放送授業を聴いたりしてみて感じるのは、基礎的事項を理解していく努力を惜しまなければ、なんとかなりそうです。

印刷教材を読むために必要な基礎知識を確認しようと図書館で参考書籍を探してみましたが、簡単すぎたり、専門的すぎたりして、なかなか思ったような情報に辿りつけられませんでした。Webを検索してみるとQ&Aやブログ記事などが見つかりますが、ある程度まとまりをもった体系の情報は少ないようです。ただし分かりやすくまとめられたサイトを見つけることができました。
来月7日必着の通信指導の提出まで一ヶ月ありません。10問中1問もできていませんが、なんとか提出できるように頑張りたいと思います。

2016/05/07

「こたつのUFO」と「胡蝶の夢」

雑誌「新潮」の2014年6月号に掲載されている綿矢りささんの作品「こたつのUFO」に小説と実体験の関係に触れた箇所があります。
 「現実に体験したことも含まれていますが、大体は想像ですよ」
が正しく思える。
と書いています。この文章は小説の一節であり、研究論文という訳ではありませんので、これを一般化して考えようとは思いません。実体験だらけの小説もあるでしょうし、SFのように体験できないような作品だってあるでしょう。

そうだとしても、人は体験したことがないことを想像できるのか、と考えることがあります。

例えば人は夢を見ますが、そこに映る風景は自分の経験を踏まえているのでしょうか。それとも全く無関係なのでしょうか。少なくとも私がみる夢は実体験に基づいているような気がします。自分が人間以外の何かになった夢とか、自分が見たこともないような土地や時代の夢などはみた記憶がありません。ただし「胡蝶の夢」という説話があるのですから、もしかすると実体験には基づかない夢をみる人が、広い世間の長い歴史の中ではいるのかもしれません。もっとも、当人の発言の真偽を確かめることは出来ないと思いますが。

さて、人というものは全く考えたことがなく全く知らないことを、思い浮かべることができるものだろうか、と話題をもう少し発展させてみましょう。人類の歴史は長く、その過程は世界中において様々です。これに比べて個々人の一生は短く、その中で経験できることなど、ほんの僅かにすぎません。だから自分では体験できないことが多くても、自分には知らない世界があると思って、意識のベクトルを自分から外部へ向けようとすることが必要だと考えています。

結局のところ、人は自分の持ち駒の範囲内で思考し行動するのではないでしょうか。先の見えない世の中(先が見える世の中なんてあるのか、とも思いますが)を渡っていくには、頭の中の抽斗を増やす必要を感じます。

2016/05/01

平成28年熊本地震の余震活動

気象庁の地震情報から「各地の震度に関する情報」を参照すると、余震が続き止まらない様子がわかります。この地震は1995年の阪神・淡路大震災のような断層に起因するものだと思います。1995年の地震を大阪北部で経験しましたが、記憶が薄れているのかもしれませんが、このように余震が頻発した記憶はありません。

5年前の東日本大震災も経験し、この時には長期間に亘って余震に怯える日々を過ごしました。

余震が発生しても、地元の気象台が発表する震度情報と、自分が感じる震度情報とには乖離があると感じています。地震のエネルギーの伝わり方は一様ではありませんし、自宅のある地盤が低湿地なので揺れやすいこともあります。さらに自宅が古く築年齢が長いので、最新の耐震設計に配慮した建物よりも揺れやすいのではないかとも思っています。

東日本大震災の余震が頻発していた頃は、本当に地震が起きていなくても、揺れているように感じることが、よくありました。地震に対する怯えがあり、不安な心を反映しているのか、家の前を大型の車が通っただけだったり、強風で家屋が揺れていただけなのか、それとも本当の余震なのか、わからない時期が長くありました。

日本は、どこでも地震と無縁ではないので、どこであっても大震災に注意しなければなりません。そうだとしても、気象庁の「震度データベース検索」で調べると、例えば2001年~2010年の間で福島県では1,275回の地震が発生していたのに対して、兵庫県では447回、熊本県では523回と少なく、地震に対する備えが疎かとなりがちです。

今回の熊本地震の余震が治まるのがいつになるのか、先が見えず、被災した方々の不安はいかばかりかと思います。 心配な日々とは思いますが、強い緊張を時々解放してストレスを溜めないことを願っています。

報道における「あるかどうか」と「ないかどうか」

テレビや新聞の報道において「~であるかどうか」という表現と「~でないかどうか」という表現が使い分けられているのか否か疑問を感じています。例えば朝日新聞DIGITALでは「マックに覚醒剤350万円分忘れる 所持罪で起訴の女」(2016年4月30日05時04分配信)という記事があり、そこには次のような表現があります。
府警は所持量の多さから、密売していた可能性がないか調べている。
この記事では「~ないか調べている」と書かれています。ここで「密売していた可能性があるか調べている」と書くことは可能なのでしょうか。ニュースを見聞きしていて、感覚的には、「~でないか調べている」と表現されることが多いように思います。これは社内規定か何かで「~であるかどうか」という表現を使わないようにしているのか、それともケースバイケースで判断されているのか、疑問に思っていました。

NHK放送文化研究所の「最近気になる放送用語」というQ&Aコーナーに「「あるかどうか」? 「ないかどうか」?」(2005年3月1日付)という記事がありました。そこでは「「あるかどうか」はある程度ニュートラル」だが「「ないかどうか」は「ない」ことが前提になっている」と回答されています。これがNHK独自の解釈なのか報道関係者共通の認識なのか不明ですが、そうであれば上述した記事では「密売していた可能性がない」ことが前提で調べていると報じていることになります。

重箱の隅をつつく様なつもりではありませんが、 捜査に予断を持たずニュートラルであるべきなら「密売していた可能性があるか調べている」と書く方が望ましいことになります。

それほど厳密さに拘って表現を選択しない日常会話では、「~であるかどうか」と「~でないかどうか」は、その場の感覚で選択され、その違いには注目していないことが多いように思います。

ニュース記事では、より厳密さに留意した表現が選択されているのだと思いますが、これらの表現をどのように使い分けることにしているのか、興味があります。

転轍機標識の修理

自宅の庭に転轍機標識があります。随分前から雨ざらしになって放置されているので、すっかり錆びてしまっています。強風などで頭部が落下して、そのたびに破壊が進んでしまっています。


板金の技術があり、工具がそろっていれば、なんとかなるのかもしれません。JR東日本盛岡支社が公開している「SL銀河アーカイブ」を見ていると、どんなに壊れていても修理は可能ではないかと思わせます。また「鉄道 転轍機標識 修復日記」という記事が掲載されているブログも見つけました。

残念ながら私には工具も技術もないので、出来る範囲で修理する方法がないものかと頭を悩ませていました。近所のホームセンターに行ったときに樹脂製の配管パイプを見て、これを加工すれば見た目だけでも綺麗にできるような気がしてきました。本当に鉄道の転轍機で利用するわけではないので、見た目が綺麗であればよいのです。

今後の修理過程を時々書こうと思います。