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2020-08-02

梅雨が明けた

2020年の梅雨は例年よりも雨が多くなりました。全国各地で大雨により洪水などの災害が発生していますが、自宅の近所では幸いにも被害はありませんでした。しかし7月中は曇り空の日が多く、晴れ間は殆ど見られませんでした。気温も、梅雨寒という程ではありませんでしたが、夏前にしては肌寒く、「異常気象」だったと言えるでしょう。

ところが8月に入ると、6月末から見られなかった晴れ間が広がり、梅雨も明けました。そういえば蝉の声も聞こえないと思っていましたが、だんだん騒がしく鳴き始めたようです。

台風も発生しているようですし、夏らしくなってきました。酷暑は勘弁してほしいという気持ちもありますが、夏は暑い方が自然の営みとしては理に適っている筈です。

2019-05-17

「テレビを持っていません」の今昔

Webを視ていたら「テレビを持っていない」ことが話題になっているのを見つけました。「テレビ」を持っていないという言い回しは、単に何かを持っていない(それが偶々「テレビ」だったという)だけではない含意があると思います。

テレビが登場した直後に大宅壮一が「一億総白痴化」と論じました。ウィキペディアでは次のようにかかれています。
もともとは『週刊東京』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。
これを踏まえて、テレビを視ないことに積極的な意義を見いだす志向が生まれたと思います。当時であれば、テレビを視なければ、本を読むとか、レコードを聴くなどすることになったでしょう。テレビは受動的な娯楽ですが、読書や音楽鑑賞は能動的な娯楽である側面を持つため、「テレビを視るのを止めて、小説を読破した」などという方が好ましく思われるという効果が期待されます。

このようなテレビ黎明期の風潮が今日でも続いているようですが、社会は変わっているのではないでしょうか。

まずテレビは地上波だけではなく、BS放送やCS放送がおこなわれるようになっています。テレビを視ているというと、民放のドラマや歌番組を視ているという意味に受け取られることがありますが、地上波の民放は見ていなくても、BSやCSでCNNやBBCとかドキュメンタリー・チャンネルを視ているかもしれないわけです。

さらに最近では、PCやスマホで動画を視るのが、一般的になってきています。場合によっては、テレビで放送された作品が動画で視られたりしますから、いうなれば「テレビは視ていない」けど「同じものを(PCやスマホ)の動画で視ている」ことができてしまいます。こうなってしまうと、「テレビを持っていない」としても、「そのような作品を視ることが出来ない」を意味しないのです。

今日においては、「テレビを持っていない」というのは、家電製品としてのテレビを所有していないというだけの意味でしかないでしょう。その発言の背後に「テレビで放送される作品に興味がない」とか「そのような作品をみたことがないし、本を読む(または音楽を聴く)ほうが好きだ」 ということを意味しません。

時代は変化しているのに、言葉が追い付いていない印象を受けます。それを意識したうえで発言するようにしたいと思います。そこを曖昧にしたままにすると「ご飯論法」のようなことも出来てしまいますから、注意しておくに越したことは無いでしょう。

2019-04-20

ノートルダム大聖堂の火災とケン・フォレットの「大聖堂」

ノートルダム大聖堂が炎に包まれる様子をTVニュースで視て、とても悲しく思いました。貴重な歴史的遺産が損害を受けたことも残念ですが、宗教的な象徴が傷ついたことも残念です。ただし運び出すことが可能な品々は救出できたものも多いそうなので、幸いでした。

この報道を見た時に、かつてNHKで放送されていた「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」を思い出しました。原作はKen Follettの「The Pillars of the Earth」です。ちょうど東日本大震災の発生前後にNHK BSで放送されていました。不安な時期でしたが、ドラマでは、崩れても再び再建していこうとする逞しさを感じ、勇気づけられました。

フランスのマクロン大統領はノートルダム大聖堂の5年以内の再建を目指している、と報道されています。予定通りの期限に再建できるのかは分かりません。しかし崩れても再び立ち上がることができることを示すことこそが、未来への希望というものではないでしょうか。

2018-12-30

それも「帰省」なの?

2018年も残り少なくなり、報道による「帰省ラッシュきょうも 各交通機関で混雑の予想」らしいです。このようなニュースでは枕詞のように使われていて、ほとんど意識しませんが、よく考えると気になる表現があります。

NHKがテレビやラジオのニュースで読む原稿は、NHK NEWS WEBでも見られます。先に例示したニュースは、次のように始まります。
年末年始をふるさとや行楽地で過ごす人たちの帰省ラッシュは30日も続き、各交通機関で混雑が予想されています。
「ふるさとで過ごす」のは「帰省」でしょうが、「行楽地で過ごす」のも「帰省」なんでしょうか。「帰省」というのは「郷里に帰ること」 なので、「行楽地」に向かうのは「帰省」とは違うでしょう。

「帰省ラッシュ」ではなくて「年末ラッシュ」であり、年明けは「年始ラッシュ」とでも呼べば問題ないと思うのですが、そういう訳にはいかない理由があるのか、疑問がつきません。

2018-12-23

平成の次の年号は何?

もうすぐ2018年は終わり、2019年を迎えます。西暦は今後も年を重ねていきますが、「平成」という年号は来年後半には無くなっています。いったい年号は何になっているのでしょうか。

日本で年号が使われるようになったのは「大化」からですが、明治よりも前は天皇の代替わりとは無関係に改元されていました。何か凶事があったりした時に気持ちを新たにするために改元されたりしていました。それを明治以降は天皇の在位と元号を合わせている訳で、日本に元号が導入される前の状況と同じになっています。要するに「推古天皇の御代の3年目」のような考え方になっているわけです。

社会の変化と天皇の在位が同期していれば良いのですが、そういう訳にもいきません。明治時代はどうの、大正時代はどうのと言ったところで、改元に合わせて社会や文化が変化するわけではありません(影響は受けるとは思いますが)。

いっそのこと社会の大きな変化で改元しても良いのではないかとも思います。例えば昭和20年は日本にとって大きな節目なので、そこで改元するわけです。例えば昭和20年を戦後元年とするとか、バブルが崩壊して「失われた十年」とか「失われた二十年」とか呼ばれているので、バブル崩壊の年を失われた元年(元号を漢字二文字とするのも止めるわけですが)とするのです。

ここで書いたのは半ば冗談です。はたして新しい年号は何になるのでしょうか。

2018-10-26

新しい技術で生活習慣が変わっていく気がする

一般論としては、何か新しい技術が世の中に導入される事で私たちの生活習慣が影響を受けるのは、至極当然なので、わざわざ「新発見!」であるかのように発言するほどの事ではありません。

しかし具体論としては、いろいろな事例があり得るので、あえて語ることも認められるでしょう。

古い例えになりますが、電卓です。これが一般に普及することで、人々の暗算能力が劣化することが懸念されました。結局今日の我々の計算能力は、維持されているのでしょうか。それとも予想通り劣化したのでしょうか。

また別の例なら、携帯電話です。(電波が届き、電源が落ちていないという条件がありますが)何時でも相手と連絡がとれるようになりました。そのことで様々な生活習慣の変化がありました。その一例として、誰かと会う約束をした時に、事前に会う場所を決めておかなくても、その時点で携帯に電話すれば良くなりました。予め細々と決めておく必要がなく、出たとこ勝負でもなんとかなるという生活態度が一般化しつつあるように思います。それが誰かと会う状況だけなら構いませんが、生活のあらゆることに拡がると、それはそれで困った状況だと感じています。

 もう一つ例を挙げると、カーナビです。地元ならば土地勘も働きますが、知らない土地を運転する場合にカーナビがあれば大変便利です。しかしカーナビを使っている人(私は持っていませんが)に聞くと「道を覚えなくなった」と言います。カーナビを使わずに知らない土地を運転すると道を間違えてしまうことは避けられません。そうならないように目印となる建物や標識に注意を払うようにします。別に記憶するつもりはありませんが、無意識のうちに覚えているようです。何年も経ってから同じ道を走ると、過去の記憶が蘇ることがあることを体験しています。

さて、このような具体例として新たに付け加わるのが「スマホ」だと思います。しかも音声認識に対応した検索エンジンです。僕はスマホ「も」持っていませんが、所有者の行動を見ていると、会話の最中に疑問が生じると、すぐに「音声認識対応の検索エンジン」で調べようとします。そして見つかった情報をオウム返しで語るだけの「スピーカー」になっています(本当は人間のハズなんですが)。 個人の知識や経験に基づいて語るような状況が薄れていく傾向になると感じています。

自分の頭で考えなくても、「インターネットが自分のナレッジデータベースになってくれる」というキャッチフレーズは魅力的ですが、それが一般化した時に、自分で考えることは一体何なのでしょう。はたして、その能力は維持できるのでしょうか。

2018-08-08

サマータイム

2020年の東京オリンピックのためにサマータイムを検討しているという報道があります(NHKオンライン「自民「サマータイム」導入検討も五輪までの実現は不透明」2018年8月8日 4時21分)。オリンピック期間中の暑さ対策として考えているようです。サマータイムにしたところで猛暑を凌げるわけでもないと思いますが、ここでは問わないことにします。

実施2年前になってから唐突にサマータイムを「検討」するというのが、まず驚きです。何を検討しようとしているのか不明ですが、もし本当にサマータイムを導入する気があるなら、実施する10年前くらいから対応し始めても遅くないでしょう。以前にあった「2000年問題」対応では、相当前から対応が始まっていました。

さらに面妖なのが、サマータイムを今後恒久的に実施するのではなく東京オリンピックの年だけでよいと考えているらしいことです。

昭和39年の東京オリンピックの時代なら、国民生活の中でコンピュータが広く利用されていた訳ではありませんでしたから、政府がマスコミを通じて号令をかけて「サマータイム」のようなものを導入することも可能だったかもしれません。 しかし今は違います。社会の隅々までコンピュータが導入されています。それらのシステムの時間設定を手作業とチャチャっと変えれば良い程度の問題ではないはずです。

導入しようとしても時間的に間に合わないと思うので、おそらく導入されないだろうと思います。

まさかとは思いますが、ITシステムの変更をおこなわず、国民全員に「(仮称)サマータイム換算表」のようなものを配布し、それを参照することで国民自身が対応することになるのでしょうか。今頃になってサマータイム導入が提唱され、しかもオリンピックの年だけで良いとか考えているらしいのを見ると、オリンピック運営組織の上層部の顔を思い出しながら、暗澹たる思いがします。

2018-01-17

"There is a golden rule that you should never explain a joke."

NHKテキスト「ラジオ英会話」2018年1月号に掲載されていたColin Joyceさんの連載「Japanglophilia」のタイトルは「What's So Funny?」でした。冒頭の文章が、この標題にあるとおりで、"If you have to explain it, it's not funny."と続きます。

全くその通りだと思います。冗談は説明できないし、説明しなければならないものは、面白くもなんともないでしょう。これは英語に限らず日本語でも(その他のあらゆる言語でも)そうでしょう。

しかし多少弁解するならば、面白い話というのは、時と場合によっては、地域や時代に限定される側面があるかもしれません。特定の言語や地域に限定される事情を風刺した場合では、説明されないと何が面白いのか理解できない場合もあるでしょう。

また受け止める側の集団としての個性もあるのではないかと思います。外国の英語の番組を見ている時に、スタジオの聴衆がドッと受けている場合がありますが、日本人の感覚(というものがあれば、ですが) からすると、「笑いのツボ」が違うように感じることが無いわけではありません。

2018-01-08

「鉄道絵画発→ピカソ行 コレクションのドア、ひらきます」

2018年2月12日まで東京ステーションギャラリーで標題の企画展が開かれています。企画展の説明では以下のように説明されています。
まずは始発駅〈鉄道絵画〉からの出発です。東京駅から線路のある風景まで、日本画、洋画、写真、資料などを展示します。
この説明の通り、東京駅を描いた作品が幾つか展示されていました。東京駅は最近になって建築当時の姿が復元されましたが、戦後長い間に亘って屋根の形状が異なっていました。東京駅を描いた作品で屋根をどのように描いているかを見れば、描かれた時期が、その当時の状況を踏まえているのか判断できそうです。

ただし絵画は写真ではないので、制作された時期の姿を正確に描写しなければならない訳ではありません。制作された時期と描写された風景が整合しなくても構わないと思います。しかし整合しないのであれば、何故そのように描いたのかという疑問が浮かんできます。意識的なのか、無意識なのか、いずれにせよ何か理由がありそうです。そういうことも考えながら、絵画を鑑賞してみたいと思います。

「なまはげ」をどう数える?

2013年版JAFツーリングマップ(東北)の「男鹿エリア」の解説に次のような記述がありました。
毎年2月に「なまはげ柴灯まつり」が開かれ、松明をもった15匹のナマハゲの下山が見られる。
気になったのは「ナマハゲは15「匹」って数えるのか?」という点です。助数詞に「匹」が使われると、(人間ではない)動物を対象としているように聞こえます。ナマハゲは人間ではない(実際には人間が演じているのですが。サンタクロースみたいなものでしょう。)から構わないのでしょうか。

それでは「15人のナマハゲ」と表現すると、 実はナマハゲは人間が演じているだけだという事実があからさまになってしまい、よろしくないかもしれません。

じゃぁ「15体のナマハゲ」と表現しましょうか。御神体を数えるようで適切とも思えますが、ゆるキャラも「体」で数えるんですよね。

Webを検索してみると、「匹で良いのでは」という意見と、「匹は間違いだろう」という意見が見つかります。何か正式なリファレンスが見つかれば良いのですが。

2017-12-16

計算機プログラムの構造と解釈

『 計算機プログラムの構造と解釈』(原題:Structure and Interpretation of Computer Programs、略称:SICP)という計算機科学の分野における名著があります。存在は以前から知っていて、図書館で何度か手にしたこともあるのですが、今一つ興味がなく終わっていました。

ただし評判が良いことも承知していて、Webを検索すれば関連情報がたくさん見つかります。簡単に読める本ではないようですが、読み終えれば達成感はあるようです。

日本語訳も書籍として出版されています。2000年にピアソンエデュケーションから出版された『計算機プログラムの構造と解釈 第二版』と2014年に翔泳社から出版された『計算機プログラムの構造と解釈 第2版』があります。漢数字の「第二版」というのは(紛らわしいですが)原著の2nd editionが底本という意味のようで、日本語版としては初版です。

ありがたいことに公式サイトではテキストを無料で読むことが出来ます(英文ですが)。また非公式の和訳も何種類かあるようです。コンピュータ関連の洋書について「和訳を読むくらいなら(訳が変だから)原著を読んだ方がマシだ」とよく言われます。非公式な和訳が何種類もあるのも、そのためのようです。それは一面の真理ではあると思いますが、(変な和訳だったとしても)日本語で読める方が有り難いのは確かです。
  1.  minghaiの日記
  2. アスペ日記
  3. 計算機プログラムの構造と解釈 第二版に関連するホームページ
  4. Long Gamma

この本ではLISP(というかScheme)が例示として使われています。原著が書かれた時代背景もあるでしょうが、Cとか(最近大流行のPythonとか)が使われている訳ではないので、手っ取り早く(CやC派生言語の)プログラミング能力をあげる役には立たないでしょう。しかし本文をよく読んで、練習問題にも取り組めば、縁の下の力持ち的に役立ちそうな予感がします。

いろいろな事に手を出しているので、これに集中できるわけではありませんが、ライフワークとして取り組んでみようと思います。

2017-12-04

「Japanese English」の和訳の一つの事例

放送大学教養学部で「英語の軌跡をたどる旅('13)-The Adventure of Englishを読む-」を受講しています。この講義ではMelvyn Braggの『The Adventure of English: The Biography of a Language』(英語の冒険:ある言語の一生)の一部が使われています。

邦訳で「23英語の植民地化」においては「日本人は独特の日本語英語の形態を生み出した。」(340頁)とあります。ここに現れる「日本語英語」というのは、原文をあたっている訳ではないのですが、「Japanese English」を訳したものでしょう。

「Japanese English」の意図するところは、日本人が使う母語(日本語)の影響を受けた英語(表現)ということだと思います。例えば英辞郎だと「日本語訛りの[日本人風の]英語」としています。

日本人の英語を語るとき「Japanese English」という表現はよく出てくると思われます。実際に上述した文献でも出てきています。その時に英辞郎のような訳出でも構わない場合もあるでしょうけど、もっと簡潔に表現したい場合もあると思います。先の例では「日本語英語」としています。特に定まった訳語というのは無いようなので、これ以外にも様々な表現が使われます。

話は飛びますが「Japanese American」は「日系アメリカ人」という訳語が定着しています。「日本人アメリカ人」と訳されることは(ほぼ)無いでしょう。これを考えると「Japanese English」にも何か定訳が欲しいところです。

2017-11-21

マタイ 7:13-14

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

2017-11-20

Firefox Quantum

Webを閲覧するためにFirefoxを利用していますが、先日新しい更新が出ているという通知が出てきました。更新を適用したところFirefox 57.0になりました。Firefox Qutantumと呼ぶことになったようです。画面の構成も変わりましたし、内部的にも大きく変更されているようです。

ところが、これまで利用していたアドオンが使えなくなってしまいました。日々の作業の根幹に関わる機能なので、ちょっと困っています。
  1. iMacros
  2. It's All Text!
  3. TiddlyWiki for Firefox
これらのアドオンがFirefox Quantumにも対応してくれるのを待つか、代替アドオンを探すことになるでしょう。

2017-10-26

Hooked on Classics 2000 Golden Classics

Hooked on Classics」というCDを持っています。元々はLPを持っていましたが、LPレコードが廃れた頃にCDで買い直しました。クラシック以外にもスウィングとかバロックとか、いろいろなアルバムが出ていますが、見つけたら買うようにしていました。何分にも随分古い作品なので、新しいアルバムは出ていないようです。

このアルバムを知ったきっかけは、NHKが土曜日の夜に放送していた「海外ウィークリー」の中で紹介されたことだったような覚えがあります。キャスターだった幸田シャーミンが「今、イギリスで大ヒットしているアルバムがある」と言って、最初のトラックを流したと記憶しています。Wikipediaでは次のように書かれているので、1982年頃のことでしょうか。
 The opening track, "Hooked on Classics" (Parts 1 & 2), was released as a single in October 1981, peaking at number 2 in the UK and later in the US at number 10 on the Billboard Hot 100 in February 1982.
時は過ぎて、LPの時代からCDの時代に変わり、今ではYouTubeなどが一般的になりました。ふとYouTubeでHooked on Classicsを検索してみたら「HOOKED ON CLASSICS 2000 (Golden Classics)」というのを見つけました。曲のアレンジが新しくなっています。

何時の間にリリースされたのか分かりませんが、タイトルに2000とあるので、2000年頃でしょうか。日本国内では既に流通していないようです。なんとか入手したいものですが、どうしたら良いのでしょうか。

2017-10-01

「カー・SOS 蘇れ!思い出の名車5」の進む道

ナショナル ジオグラフィック チャンネルで「カー・SOS 蘇れ!思い出の名車5」が放送されています。前作品のシーズン4の頃から番組の傾向が変わってきたと思っていましたが、今回のシーズン5では、その傾向がより鮮明になっていると感じます。

この番組「カー・SOS 蘇れ!思い出の名車」が放送された当初は、ボロボロになったクラシックカーを修復する過程に主眼がおかれていて、どちらかというと「DIY的」な番組だったような記憶があります。基本的に3週間で修理を完了させていたハズです。修理に必要なパーツを集める過程や、ボディを直すための工場での板金作業などにフォーカスしていた番組だったと思います。しかも修理が終わっても、(イギリスの車検制度がどうなっているの私はわかりませんが)「車検が通らないと、修理が終わっても車が公道を走れないから」とか語るシーンがあったと思います。

ところがシーズンを重ねるにつれて、番組の主眼がオーナーの闘病生活の描写に移ってきているように感じます。フォーカスしているのが「DIY的」なところから「人情物語的」な面に移ってきている気がしています。

クラシックカーを修理する過程はオマケ程度に触れられるくらいの扱いです。番組のスタンスが変わっていくのも、長寿番組の宿命なのかもしれません。

2017-09-25

「彼女が愛し、守ったゴリラたち」ナショナル ジオグラフィック 日本版 2017年9月号

ナショナル ジオグラフィック 日本版 2017年9月号に掲載された「彼女が愛し、守ったゴリラたち」はルワンダ奥地でゴリラの研究を続けたダイアン・フォッシーの活動を紹介する記事でした。記事によれば「彼女への評価は分かれるが、チンパンジー研究者のジェーン・グドールが語ったように、『ダイアンがいなければ、今頃はルワンダにマウンテンゴリラは1頭もいなかったかもしれない』のだ」ということです。

この記事にはとても考えさせられました。それは、ゴリラの生態に関心が生まれたからではないし、彼女の活動に興味があるからでもありません。

彼女の活動を詳しく知っているわけではなく、記事に書かれた以上のことは知りません。記事を読んだ印象では、彼女のやり方は地元と軋轢を生んでいたようです。しかし結果としては偉大な成果をあげたといえるのでしょうが、その過程は誰もが参考にできるものではなさそうです。

普通よく聞かれるのは、信念を持つ人物が困難に打ち勝ち最終的に大きな成果をあげるというような物語です。地元もそれを歓迎し、地域も一体となって応援するというストーリーです。この方が道徳的には良いのかもしれませんが、利害が衝突する場合に、どう対処すべきなのか、事前に望ましい結論が判っているわけではないでしょう。

この記事が本来伝えたかったメッセージとは違うところで、とても考えさせられました。

2017-09-15

Violin Concerto in D Major, Op. 35

以前からチャイコフスキーの作品は好みだったのですが、映画「オーケストラ!」を観てからは、「ヴァイオリン協奏曲ニ長調 作品35」がとても気に入りました。バイオリンを演奏するソリストの演奏の違いで曲の雰囲気がこれほど変わるものかと驚きました。それ以来(いつもではありませんが)CDを見かけたら購入することにしています。

先日指揮者Yehudi Menuhin、バイオリンZino VinnikovThe Royal Philharmonic Orchestraの演奏によるヴァイオリン協奏曲が収録されたSACDハイブリッドを買いました。

全体的にゆっくりとした穏やかな演奏だと感じました。この曲は終盤ではテンポが速くなるので、そこでは次第にテンポを上げてきていますが、それでも抑制されている印象を受けます。こういう演奏もあるのかと思うと新鮮でした。

2017-09-11

TOEIC試験会場で見かけた「トイレ女子」

昨日第223回TOEIC L&R公開テストを受験してきました。いつのことながら試験時間に追われる感じがして、最後の方は解いている時間がなくて、適当にマークすることになります。

さて、TOEICの試験会場はいつも同じということでもなく、近くの大学などが割り当てられます。それが何処であろうとも、(おそらく運営側のガイドラインがあるのだと思いますが)同じような試験会場になるように準備されています。例えば学校に設置されているゴミ箱には「使用禁止」との張り紙がされていますし、トイレの場所にも張り紙があります。

昨日受験した会場では、男性用トイレの入口には「トイレ男子」と、女性用トイレの入口には「トイレ女子」との張り紙がありました。

「トイレ女子」?近年流行で「山ガール」とか「歴女」とか「〇△女子」というのが多いですが、その一種かと思ってしまいました。

何故「女性用トイレ」とか書かないんだろう?

2017-09-02

Japanese English

The Japan Times STで人気のコラム「ODDS & ENDS」の8月の話題は「Japanese English」でした。日本で独自の意味合いを持ってしまった英単語などについて語られています。

月間テーマである「Japanese English」は、ニュアンスは理解できるのですが、日本語では何と訳したらよいのでしょう。ただ片仮名にするだけの「ジャパニーズ・イングリッシュ」とするのは御免蒙りたいです。パソコンなどIT関係の文書がこういう調子で、英単語をカタカナ表記にしただけの文章が溢れています。曰く「オブジェクトをデリゲートして、次に・・・」のような感じですが、この手の(日本の文字を使用した)文章を読むくらいなら、辞書片手に英文を読んだほうがマシです。もっとも「算譜」とか「作譜」と訳するのも流石にどうかとは思っているのですが。

さて話題を戻して「Japanese English」の和訳ですが、長々と言えば「日本独自の変化を遂げた英語(表現)」とでもすれば意図が通じるかもしれませんけど、長いですね。コラムの中では何度も使われるので、もっと簡潔な表現にしたいところです。

英辞郎では「日本語訛りの[日本人風の]英語」と訳されています。意味はこういう事ですが、簡潔とは言えません。

ここで発想を飛躍させて、「Japanese American」を「日系アメリカ人」と訳すのですから、「Japanese English」を「日系英語」とするのはどうでしょう。これが良いというわけではありませんが、一つのアイディアです。違和感を感じるかもしれませんが、その違和感の一部は、見慣れないことからくるものであって、見慣れたら気にならなくなるかもしれません。もっと本質的な違和感もあることでしょう。それは見慣れたところで解消されるものではありません。

なにか良い和訳はないものかと思います。