2016/08/30

どうしてユネスコ世界遺産に登録したがるのか

現時点で日本にはユネスコ世界遺産として文化遺産16件と自然遺産4件があります。この他にも申請を希望している施設などが日本全国に数多くあるようです。これらは何故ユネスコ世界遺産に登録したいと考えているのでしょうか。

ユネスコ登録に至るまでの審査過程について詳しく承知しているわけではありません。聞くところによると、人類全体の遺産として普遍的な価値をもつものを後世に残していこうとするのが理念のようです。そのためには破壊から守り、保全活動をための活動が必須であるはずです。これらの活動をおこなうために何をするのかはケース・バイ・ケースでしょうが、何しろ歴史的遺物ですから、修復や保全にも多額のお金がかかることが予想できます。

歴史的建造物はアトラクション施設ではないので、商業活動の都合に合わせて改変したり定期的にリニューアルするわけにはいきません。そんなことをしたら世界遺産の登録が取り消されることになるでしょう。せいぜい入館料をとって外部から見学するか、または一部で内部公開するくらいのことで、おそらく保全活動に必要な経費をまかなうには遠く及ばないことでしょう。

それでも日本各地で世界遺産登録を目指す施設が多い理由は、地域活性化のために観光産業のテコ入れに使いたいというのが正直なところではないかと思っています。今は日本国内の世界遺産の絶対数が少ないので世界遺産という「ブランド価値」が有効なのでしょう。もしも次々と日本全国に世界遺産が登録されて各都道府県に最低でも数十か所くらいあるような時代になってしまったとしたら、世界遺産を謳っても誰も興味を示さないでしょう。例えば日本各地には重要文化財という指定を受けた文化財がありますが、それだけでは誰も珍しくもなんとも思わないほど数多く指定されています。

文化財を保全し後世に伝えていくというのは、お題目は聞こえが良くても、商業価値が人々の生活の隅々まで浸透している現代社会では、とても難しいことです。保護するためにはコストがかかりますが、そのコストを誰が負担するのかというのは、文化財に限らず、文化系施設(図書館、公文書館、博物館、美術館など)の維持において常に課題とされる問題です。

それでも世界遺産に登録したいのでしょうか。私自身としては登録に賛成でも反対でもありません。むしろ登録されたとしても、されないとしても、文化財を後世に伝えていくためには国や県や市町村が主導していくべきだろうと思っています。過去の遺物である文化財は名義上の所有者の私物ではなく、国民(または県民・市民など)全体で受け継ぎ、将来に伝えていくものであるはずです。民間活力を生かすとか言いながら維持管理をどこかの企業に放り投げてしまうのは文化財を後世に伝える姿からはかけ離れている気がします。

そもそも文化財の価値とはなんでしょうか。世界遺産だから、重要文化財だから、それは価値があるのでしょうか。そうではなく、その文化財には価値があり、その結果として世界遺産や重要文化財として選ばれることになったと考えるべきでしょう。対称性バイアスの落とし穴に気を付けなければなりません。そもそもの価値とは何かを、よくよく考えなければならないでしょう。何かの権威に寄り掛かってしまえば、考えることを止めて楽にはなるでしょうが、そういう訳にもいかないと思います。

2016/08/26

気象庁が発表する長期予報における確率表現

気象庁が発表する予報は、短期予報・中期予報・長期予報に分けられているようです。気象庁のWebにある用語解説によれば短期予報とは48時間以内の予報を指し、テレビなどで放送される明日の天気情報などが代表例でしょう。これに対して長期予報とは8日以降の予報のことで、1か月予報3か月予報・暖候期予報・寒候期予報などがあります。3か月予報は毎月25日頃に発表され、これが発表されるとテレビなどでは天気予報の時間に気象予報士がコメントすることが多いようです。

長期予報では平年値をもとにした確率表現が使われており、普段見慣れている天気予報とは表現方法が違います。 例えば平成28年8月24日に発表された「関東甲信地方 3か月予報」では、向こう3カ月(9月から11月まで)の気温の状況を階級ごとの出現確率として表現しています。例えば9月であれば、平年より低い確率が10%、平年並である確率が30%、平年よりも高い確率が60%です。漠然と残暑が厳しいんだろうなとは思いますが、具体的にどれくらい暑いのだろうか、いつまで残暑は続くのだろうかとか、そういう疑問に答えてくれる情報なのでしょうか。

気象庁のWebには次のような解説が掲載されています。
ここから分かるのは、確率表現では平年値が基準になっていることです。現在使われている平年値は1981年~2010年までの30年間の測定値が使われています。これは10年毎に見直されるので、10年前では1971年~2000年までの測定値から平年値は計算されていました。

気象庁のWebでは過去の測定値を知ることができるので、具体的に東京を例として考えてみたいと思います。1981年から2010年までにおける7月・8月・9月の東京の平均気温は次のとおりでした。
  • 【7月】25.8℃
  • 【8月】27.4℃
  • 【9月】23.8℃
さらに1981年から2010年までの東京における各年月の平均気温を並べ替えると「平年並」というのは次のようになります。
  • 【7月】25.6~26.4℃
  • 【8月】27.0~27.9℃
  • 【9月】23.2~24.4℃
長期予報の確率表現ではこのような平年値が基準となりますので、何か絶対的な指標があるだろうと期待することはできません。長期予報において「9月の気温が平年並である確率は30%」というのは、9月に予想される平均気温が23.2℃から24.4℃の範囲内になる確率が30%程度だという意味です。

「平年並」とされる気温の幅は月毎に異なりますから、もしある月の平均気温が25.0℃であったとしても、それが8月のことならば「平年よりも低い」と評価されますし、9月のことならば「平年よりも高い」と評価されるはずです。このように確率表現における「平年並」との比較は相対的なので、絶対的な気温などを想定して考えると発表を読み誤ることになります。

さらに平年値というのは10年毎に見直されますから、10年前の平年値は1971年~2000年までの30年間を対象としていました。ここから計算される平年値は、現在使われている平年値とは違います。例えば東京における7月・8月・9月の10年前の平年値と「平年並とされる温度の幅」は次の通りでした。
  • 【7月(10年前の場合)】25.4 ℃(25.2~26.2℃)
  • 【8月(10年前の場合)】27.1℃(27.0~27.4℃)
  • 【9月(10年前の場合)】23.5 ℃(23.0~23.7℃)
地球温暖化の進展の影響なのか、全般的に平年値が上昇しています。

例えば9月の平均気温の予想が24.0℃になると見込まれた場合、現在の平年値(1981年~2010年の平均)で考えれば「平年並」と評価されます。ところが10年前の平年値(1971年~2000年の平均)で考えると「平年よりも高い」と評価されることになります。同じ24.0℃なのに、平年値の取り方によって評価が違ってくることに注意しなければなりません。

東京における9月の気温は「平年よりも高い」確率が60%です。この意味を理解するためには、9月の平年並というのが23.2~24.4℃であることを知る必要があります。この予報が語る情報はこれだけで、実際の気温が何度になるのかということは何も語っていません。そして残暑が何時まで続きそうかということも語っていないのです。そういうことを知りたいのであれば、また別の情報と組み合わせて評価する必要があるでしょう。

9月の平均気温が確定するのは10月です。はたして何度になるでしょうか。平年よりも高い確率が60%ですから「平年並」以上かもしれません。しかしそれは24.5℃かもしれないし、(確率は低いでしょうが)29.9℃かもしれません。

「平年よりも高い」というのが具体的にはどういうことなのかを知るには、発表された長期予報だけでは判断できないという事です。もっと多くの情報(それが何であるのかは不明ですが) を組み合わせて考えることが大切になるだろうと思います。

2016/08/21

「現代物理科学の論理と方法('13)」の単位をとりました

放送大学大学院で平成28年度第1学期にうっかり「現代物理科学の論理と方法('13)」を科目登録してしまいました。想像していた以上に大変で4月から単位認定試験のある7月末まで、この科目にかかりきりだったと言っても過言ではありません。頑張れば理解できるところもあり、さっぱり何のことやら理解できないところもあり、目の回る忙しさとなりました。

単位認定試験は7月下旬にあり、その結果も先日届きました。なんとか単位を得られました。成績も悪くなく、ほっと一安心です。

相対論や量子論はスッキリと理解できたとは言えません。この分野を専門的に極めようとするつもりではありませんが、自分として腑に落ちる程度になりたいと思っています。勉強はこれからも続けていくつもりです。

Windows 10 Anniversary Updateはまだか

Windows 10 Anniversary updateは8月2日から提供されているそうです。Windows Update経由で提供されると聞いていて、提供開始から数日以内には利用できるかと思っていたのですが、今もってWindows Updateには現れません。お盆前までは今日か明日かと首を長くして待っていましたが、もうあまり期待せずに待とうという気になっています。

もっとも気になっている新機能はLinux Subsystemです。4月頃に発表された時にはWeb上には続々と記事が現れましたが、Anniversary Update提供開始後はあまり話題になっていません。まだ正式版ではないとか、セキュリティ的に問題を抱えているとか言われていますが、実際のところどうなのでしょう。

致命的な問題がないのであれば、早く使ってみたいと思っています。

人力車は明治の日本の象徴ということなのか

The Japan Times On Sundayの2016年8月7日号の23面に100年前の記事として「'Rikisha' disappearing from Tokyo's streets」(Friday, Aug. 11, 1916)が掲載されていました。1916年というと大正5年ですが、その時には既に東京では人力車は少なくなっていたそうです。
With the introduction of electric railways and automobiles, the number of rikisha in Tokyo has greatly decreased, and with the decrease of its number the romantic feature of rikisha has entirely disappeared.
人力車というのは明治時代になってから登場し、江戸時代の駕籠を駆逐した文明開化の象徴のような乗り物でした。このような事は知っていても、人力車が何時頃まで使われていたのかというと、具体的なイメージが湧きません。例えば下村湖人の『次郎物語』(第4部、13 送りの日)には次のような記述があります。
朝倉先生は、もう、玄関に待たしてあった人力車にとびのって、駅の方へ急いでいたのであった。
これは昭和7年頃を描いている箇所ですが人力車がでてきます。もっともこれは小説ですから現実と混同するわけにはいきませんが、イメージ的には戦前であれば人力車が使われていても違和感はありません。ところが同時代史料である新聞記事では、大正初年になると東京では既に人力車が大幅に減少しているというのです。

人力車は明治に生まれ、明治にピークを越えて消えていった、明治の象徴ということなのでしょうか。

2016/08/16

ミステリ作品の伏線には気付くものなのか

アメリカで活動しているTrans-Siberian Orchestraというバンドが1996年に発表した作品に「Christmas Eve/Sarajevo 12/24」があります。発表された時期やタイトルからは当時のサラエボ紛争が思い起こされますが、そこに込められた社会的なメッセージ性については理解していません。

YouTubeでプロモーションビデオ視ることができます。まず女の子が様子を窺うようにドアを開けて部屋に入るシーンから始まり、雪が降る中を深夜に屋外で演奏している楽団の中に紛れ込んでいきます。そして娘がベッドで寝ていないのに気付いた母親が家の中を探しはじめ、部屋に入ってくるとソファで寝ている(というか寝たふりをしている)女の子を見つけ、ほっと安心して床に落ちていたガウンをかけてあげるというのが概要です。

この母親がPVの3分22秒あたりで床に落ちているガウンを拾い上げるのですが、このガウンはPVの冒頭0分19秒付近で部屋に入ってきた女の子が落としたものだと思います。このガウンに何かメッセージがこめられているのか否か不明ですが、これは要するにストーリ中にある伏線のひとつなのだと思います。

この動画を何度も繰り返し視て、隅々まで覚えてしまうくらいになれば、作品中に現れる小道具のひとつひとつにまで気を配ることができるでしょう。しかし初めてPVを視てとしたら、冒頭に出てきたガウンが伏線として最後に再登場していることに気付くのは難しい気がします。

伏線とはこのようなものでしょう。作品中であからさまに存在を主張してしまったら伏線にはならないと思います。ミステリ小説や映画などで最後にどんでん返しがあり意外な人物が犯人であることがわかることがありますが、作者にしてみれば情報は全てオープンにしている(ただし伏線として)とよく言います(Webには「ミステリにおいては伏線=ヒント、そして時には=謎」という書き込みがありました)。それに気づかなかった自分の不明を恥じ、意外な展開にカタルシスを感じ、同じ作品をもう一度視よう(読もう)という気にさせることでしょう。こうして何度も繰り返し接することができる作品、また接することに耐えられる作品が、名作としての評価を得ることになるのだと思います。

これに対して、底の浅い作品だと伏線も何もなくて、先の展開が読める気がしてくるものですし、実際にも想像していたようにストーリーが展開していきます。一度読んだら十分で再読しようとも思わないでしょう。このあたりが名作とそれ以外を分ける境目になるのかもしれません。

2016/08/11

グレート・ヒューマン~人類をたどる旅

NATIONAL GEOGRAPHIC CHANNELで「グレート・ヒューマン~人類をたどる旅」という番組が放送されています。7月から始まり、全10回なので、9月上旬まで続きます。この作品は、私たち人類の祖先が250万年前にアフリカに誕生し、進化を続けて世界中に広がっていく様子を実際に追体験しようとするものです。番組の説明によると「その進化の道筋をたどるべく、実験考古学者のビル・シンドラーとサバイバル・インストラクターのキャット・ビグニーが、原始時代の暮らしに挑む」とあります。

番組に写るのはビルとキャットの二人だけですが、もちろんその周囲には撮影関係者や、万が一に備えた救急救命チームも控えていることでしょう。しかしそれらのスタッフが表に出てくることはなく、人類の進化を再現すべくビルとキャットが苦闘を繰り広げるのです。疑いのまなざして見ようとすればカメラの回っていないところで何が行われているかわかったものではないともいえると思いますが、 限りなく当時の現実を再現しようとしていることを信じようと考えています。

人類がアフリカを出てアジアに入っていくなかで、何を食べ、どこで水を得ていたのか、二人の体験がその答えを教えてくれます。野生の動物を見つけて仕留められたら、素晴らしいご馳走にありつけるようです。でも狩猟ができなければ、トカゲだろうと何だろうと、食べられそうなものを食べるしかありません。気持ち悪いとか嫌とか言っていられなかったでしょう(もしかすると嫌とか言ったかもしれませんが、何も食べなければ死はすぐ近くまできていたでしょう)。

この番組の驚くべき点は、この過酷な体験をCGも使わず、屋内実験設備でもなく、現実の大地の上で、当時の技術水準の道具だけを使って、当時の生活を再現しようとしていることです。我々の祖先が生き抜くためにどういうことをしてきたのか、よく理解できます。

何も食べられるものがない不毛の大地を歩んでいた時ふと何かが視界を通り過ぎたのに気づいたら、それがサソリだろうとトカゲだろうと、とりあえず捕まえて食べるしかなかった時代の苦しさがよくわかります。これを書きながら庭をみると野良猫が蝉を捕まえていくのが見えました。他に食べるものがないというのは、こういうことなのかもしれません。

2016/08/08

何々「というところ」という表現

ウィキペディアの「北海道の難読地名一覧」によると北海道の小樽市には文庫歌というところがあるそうです。現在では地名としては残っていないようですが場所的には小樽市塩谷2丁目付近のようです。難読地名は日本各地にあり、大阪府の放出(はなてん)も有名です。ただし難読であっても地元の人からすれば難読でもなんでもなくて、普通に読めていることでしょう。

ここで注意したいのは次のような表現を選択するときの 心理的な動向です。
  1. 北海道というところがあります。/北海道では××です。
  2. 北海道には小樽市というところがあります。/北海道小樽市では××です。
  3. 北海道小樽市には文庫歌というところがあります。/北海道小樽市文庫歌では××です。
これらの表現を考えると最初の2例は違和感があるのではないでしょうか。「何々というところがあります」という表現を選択するときには「その地名は既知ではない」という心理が働いているはずです。だから「北海道」とか「小樽市」のような日本では誰でも知っているような地名に対して「というところ」と表現することは、まずないでしょう。しかし(難読である否かは無関係として)極めて限定された地域の中でしか知られていないような地名であれば「というところ」という表現を用いるのがむしろ普通で、それをあたかも日本中で既知であるのが当然のように表現されたら、引っ掛かるものがあるでしょう。

手持ちの国語辞書(『明鏡国語辞典』携帯版)を引いてみましたが「というところ」という表現を説明している箇所は見つけられませんでした。見出し語「い・う【言う】」では語義6の中で「(ア)《「と―」の形で》下の語で上の語の内容を説明するのに使う。」とありました。「文庫歌というところ」の場合なら「ところ」という下の語で「文庫村」という上の語を説明していると考えられるということになります。ここにおける語義の説明では心理的側面については触れていません。

以上長々と「というところ」という表現に拘ってきたのは、この表現には会話をおこなう間での共通認識を明らかにするリトマス試験紙となるのではないかと思ったからです。会話に登場する地名に対して「というところ」と表現する人は、その地名を含む周辺に対して馴染みがないことを言外に示していると言えないでしょうか。

2016/08/04

「履修登録する」という意味のregisterの用法

NHKラジオ第2放送「ラジオ英会話」の2016年8月3日放送「At Orientation」の中で次のような文が出てきます。
Your first priority is to register for classes.
(皆さんの最優先事項は講座の履修登録をすることです。)
大修館書店の『アクティブジーニアス英和辞典』では、registerには名詞・他動詞・自動詞の用法が記載されています。自動詞の意味として「<人が>〔・・・に/・・・として〕登録する、記名する〔at, for, with, in / as〕」とあり、用例の中に「register for a course in politics(政治学の課程履修の登録をする)」があります。

ちなみに他動詞の意味としては「<人が><事・物を>〔・・・に/・・・として〕登録する、記録する、登記する〔in / as〕」 とあり、「register a child's birth(子供の出生を届ける)」という用例が記されています。

大学生が履修登録をおこなう場合「register for a course」と英語では表現するのであって「register a course」 ではないということです。外国語というものは何でもそうですが、文法に基づいて表現があるのではなく、表現を整理して文法ができています。この「register for a course」の例においても、英語学習者としての日本人が英和辞典を紐解きつつ和文英訳すれば「register a course」としてしまう恐れは多分にあるでしょう。

だからこそ「英作文は危険だから、英借文せよ」とアドバイスされるわけです。もしかすると前置詞forが必要な理由もあるのかもしれませんが、それを問うてみたところで「英語ではregister for a courseと表現するものなのだから、何故forが入るのかとか、そんなことに拘っていないで、どんどん表現を暗記していかないと英語は出来るようにならない」と返されてしまいそうです。これは全く正論で、反論の余地もありません。

英語に限らず外国語の学習では間違いを繰り返す中で理解が深まっていくわけです。「履修登録をする」という文を英訳して「register a course」としてみたら間違いで、正しくは「register for a course」なのだということを知るのも、学んでいく中における小さな一歩でしょう。ただし可能であれば、ただ「そういうものだから(意味を問わずに)暗記せよ」というよりは、(確定した理論でなくても構わないので)何らかの意味付けを理解して覚えるようにしたいものです。

納豆とMarmite

日本で暮らす外国人がぼやくことのひとつに、何かというと「納豆が食べられるか」を尋ねられることがあるようです(Webには「日本好きな外国人留学生が言いたい、日本人から聞かれすぎる典型的な質問」という情報がありました)。納豆というのは日本人の間でも好悪が明瞭に分かれる食べ物です。健康に良いから積極的に食べましょうとアドバイスされる一方で、あの食感や臭いが嫌だと訴える人も少なくありません。

NHKラジオ第2放送の「ラジオ英会話」でColin Joyceさんが連載している「Japanglophilia」では2016年8月号で納豆の話題が書かれていました。「"Sort of" Equivalents」というタイトルで日本とイギリスの共通点を独自の視点から分析しています。それによると、もちろんイギリスには納豆はありませんが、「Marmite」というものがあり、トーストしたパンに塗って食べたりするようです。かなり強烈な食材らしく、イギリス国内においても嫌いな人が多いそうです。それでも好きな人は大好きなのでしょうから、まるで納豆みたいですね。

なんと「全国納豆協同組合連合会」という業界団体があり、北海道から沖縄まで日本各地に加盟している業者があります。茨城県が最も会員が多いのは納得できるところです。東日本の業者が多く、西日本には少ないのも予想通りかもしれません。しかし大阪府には3社、なんと沖縄県にも1社加盟しているのは驚きです。

2016/08/01

××富士、△△銀座、小京都・小江戸

北海道にある羊蹄山は「蝦夷富士」とも呼ばれるそうです。羊蹄山以外でも、岩手山が「岩手富士」、大山が「伯耆富士」など、日本各地に「××富士」と別称される山があります。これらを郷土富士と呼ぶそうです。富士山は日本を代表する山ということでしょう。関東には「西の富士、東の筑波」として対比される筑波山がありますが、しかしながら××筑波のように別称される存在にはなっていません。山の代表という訳ではないのでしょう。

同様な例を考えてみると「△△銀座」を思いつきます。「銀座」というと商店街の代表をイメージしますが、日本各地に「銀座」を名前に加えている商店街があります。有名な商店街としては、大阪の黒門市場とか京都の錦市場などがありますが、これらの名前を冠した「△△黒門(市場)」や「△△錦(市場)」のような商店街が日本各地にあるとは寡聞にして知りません。商店街の代表としてイメージされるのは(何時頃からそうなったのか分かりませんが)銀座しか考えられないのでしょう。

さらに日本各地に「小京都」と呼ばれるところがあります。津和野が有名ですが、それ以外にも小京都と呼ばれる地域の連合団体として「全国京都会議」があります。また「小江戸」と呼ばれるところもあります。有名なのは川越でしょう。小京都にしろ小江戸にしろ、京都や江戸が都市の代表と見なされている現れであると思います。

これらの事例からわかるように、本来の意味(富士山は静岡と山梨に跨る山である、銀座は東京の地名であるなど)を流用して地元の何かと結び付ける行為は、本来の意味の持つイメージが広く知られていることでもあります。他にも「辻調理師専門学校は料理界の東大」であるとか、「誰々は平成の水戸黄門」だとか、枚挙にいとまがありません。これらの固有名詞が本来の意味を離れて使われるようになったとき、その存在は類似した諸々とは異なる段階に入ったと言えるでしょう。