2016/09/20

携帯接続用USBケーブルの謎

従来型携帯(いわゆるガラケー)をPCと接続するためのUSBケーブルを使用しています。携帯内蔵の音楽プレーヤーにファイルを転送するためWindows 10のWindows Media Playerを利用しています。ケーブルは数年前に購入し(毎日とは言いませんが)毎週のように頻繁に利用していました。ケーブルを接続するとWindows Media Playerが起動してくるので、転送したいファイルを同期していました。

ところが先週になると突然ケーブルを繋いでも携帯が認識されなくなりました。LEDが赤く点滅しているので充電はしているようです。Webで調べてみたところ、携帯接続ケーブルには「充電専用」ケーブルと「充電と通信が可能な」ケーブルがあるので間違ったケーブルを使っているのが悪いのではないかという指摘がよくされています。しかし何年間も利用できていたケーブルなのですから「充電&通信」ケーブルであることに間違いはないはずです。

仮にケーブルに問題があると考えてみました。別のケーブルを使ってみて問題がないのであれば、そのケーブルが悪かったということになるでしょう。新規にケーブルを購入して利用してみたら、問題なくWindows Media Playerが立ち上がってきました。やはりケーブルの問題だったようです。

問題のあったケーブルは外見からは不具合があるようには見えませんが、どこかが断線していたのかもしれません。携帯接続ケーブルは、これまでも何度か買い替えています。いつも問題が突然発生し、前日までは同期できたのに、いきなり同期できなくなります。しかしその場合でも充電はできるのです。

充電専用ケーブルと通信可能ケーブルの違いは、内部で結線されているケーブルの本数が違うだけであるそうです。もし仮に外見からは判断できないような断線が発生してトラブルを起こすのであれば、「通信できるが充電はできない」といったトラブルが起きても良さそうなものですが何故かそういうことにはならないのです。トラブルはいつも「通信はできないが充電ならできる」という現象になるのです。

故障の起きる箇所が充電ケーブル部分になるか通信ケーブル部分になるかは等しい確率になりそうなものですが、そうでもないのでしょうか。

2016/09/18

Windows Vistaの月例更新の処理がやっと終わった

延々と続いていた「更新の確認」がようやく終わりました。9月15日(木)の昼すぎから始めて9月18日(日)の午後に終わったので70時間以上かかったことになります。いくらなんでも長すぎませんか。

毎月出る月例更新を入れているので今回入れる必要のある更新は14個でした。インストールそのものは10分ちょっとで終わりましたが失敗した更新が1個ありました。再起動を求められたので、立ち上げ直して失敗した更新を入れるため改めて更新の確認をしています。

この調子で来月以降の月例更新も時間がかかるのかと思うとうんざりします。

2016/09/16

Windows Vistaの月例更新の処理が長すぎる

手持ちのノートPCにはWindows Vistaが入っています。普段は毎日使っているわけではありません。MicrosoftはWindows Vistaのサポート期間を2017年4月11日までとアナウンスしているので、あと半年間ほどは月例のセキュリティアップデートが出るはずです。

9月分の更新が先日公開されたので念のためにWindows Updateをかけているのですが、もう24時間以上たつのに更新の確認が終わりません。何時頃からなのかは忘れましたが、更新の確認処理に異様に時間がかかるようになりました。確認が済んでしまえばインストール自体は常識的な時間で終わります。

いったいどうしてこれほどに時間がかかるのか不審なのですが、一般的に考えればいろいろな原因が考えられるでしょう。
  1. PC自体の基本性能が低いのではないか。
  2. ハードウェアの何かが故障しているとか、ネットワークが重いのではないか。
  3. Windows Update自体がおかしい。
誰かに漠然と尋ねられたら上記のような可能性を回答するかもしれませんが、僕自身はWindows Updateの不具合を強く疑っています。例えばWebでは「Windows Updateが終わらない問題 2016年9月版」という記事があり、Vistaの場合は特定のパッチを先に入れておけば良いようです。

別記事にも書いている通り、このノートPCはVistaのサポートが切れる前までにOSを入れ替えてしまおうと考えています。Windowsの月例更新が遅いのは困りものですが、今後も何年にも亘って続くことではないので、気長に更新が終わるのを待とうと思っています。

2016/09/15

超高速!参勤交代 リターンズ

9月10日に公開された映画「超高速!参勤交代 リターンズ」を視ました。この映画は形式的には時代劇とは言っても、ここに歴史を求めるのは筋違いでしょう。あまり深刻に考えず、気軽に楽しめる娯楽映画だと思いますし、楽しめました。主人公が危機的状況に陥っても多分悲劇的結末には至らないだろうと思っていて(実際その通りでした)、心臓に負担のかからない作品です。

この作品は歴史的現実も物理法則も超越しているので荒唐無稽な展開が多いとは思いますが、時代背景や地理的状況や文化を反映しているところもありました。いったいどこが荒唐無稽で、どのあたりが歴史的事実などを踏まえているのかに気付くためには、歴史や文化に対する深い素養が必要になってくるのではないでしょうか。

言うまでもありませんが、この作品はドキュメンタリーではないので現実を正確に再現する必要はなく、何も知らなくても気軽に楽しめることが大目的のはずです。この目標は達成されているでしょう。そうであっても台詞の端々に現れるちょっとした言葉の中や登場人物のキャラクター設定などに、創作ではない現実が仕込まれていたように思います。それに気づくためには自らの教養が反映されなければならないと思います。多分自分の教養の深浅に応じて、気付く箇所は変わってくるでしょう。

2016/09/11

自分の行為に「お持ち帰り」と言ってもよいか

マクドナルドのようなテイクアウトも出来る飲食店のカウンタで注文する場合、客の側が自分の行為に対して「お持ち帰りです」と言っている場面に遭遇することがあります。僕としては違和感があり、店員側が「お持ち帰りですか」と尋ねることは許容しても、客側が「お持ち帰りです」と自分の行為に「お」をつけるのは受け入れがたいです。

英語のように「For here, or to go.」で客の側も店員の側も済ませられれば簡単だとは思います。

またテイクアウトではなく店内で飲食する食堂においても、入店した客の側が「おひとりさまです」と自分から言っていたのを先日耳にして同様の違和感を覚えました。この場合でも店員側が「何名様ですか」と尋ねたら客側が「ひとりです」とか応答するのをイメージしているのですが、自分で自分のことを「おひとりさまです」と答えているのには驚きました。

Webをみると同様の疑問を持つ人がいる(店で店員に「お持ち帰りでお願いします。」という言葉は正しいですか? 「お」を付けるのが正しいですか)ようですが 、間違っているという回答の他にも、それで問題ないという回答もついています。

問題がないという主張の根拠は、その「お」は美化語であり「お水」のように表現するのと同じことだそうです。確かに「お水ください」のように言う事はあります。しかし「水ください」と言う事もあります。 この場合では「お」の有無は許容できます。

そうだとしても、客自身が「お持ち帰り」・「おひとりさま」と発言するのは許容できかねるのです。特に「おひとりさま」というのは店員側からの尊敬表現として「お」や「さま」がついている訳ですから、客側が言う事ではないでしょう。

もう随分前になりますが大修館書店から出た『問題な日本語』 という本が評判になったことがありました。出版当時興味深く読んだ記憶はありますが、もう細部は覚えていません。そこで「おビール」という表現が出てくる状況の話題があった気がします。「水」・「コーヒー」・「紅茶」・「ビール」などに対して、「お水」・「おコーヒー」・「お紅茶」・「おビール」などと表現する人はいるようです(「おワイン」というのは聞いたことがありませんが、もしかしてそういう風に言う人もいるんでしょうか)。

この手の話題は「正しい日本語か乱れた日本語か」という議論と結び付けられやすく、あっという間に炎上してしまうので取り扱いに注意が必要です。言葉が時代とともに変わっていくのを受け入れるとしても、どういう言葉遣いがどういう意味を持っているのかを考えていくことは大切だと思っています。

「~だそう。」を連発する旅番組に違和感

テレビ番組のジャンルのひとつに旅番組があります。著名な芸能人が(実際に行くか、吹き替えかは別として)現地を訪れて名所などを紹介したりする番組です。日本国内の場合も外国の都市の場合もありますが、自分で行ったことのある土地だったりすると懐かしさもあり、時々視ています。

レポーターを務める芸能人が女性の場合に多い気がしますが、その土地を紹介するときに「○○は△△だそう。」という言い方をすることがあります。省略しないで言えば「○○は△△だそうです。」となるところでしょう。旅番組の根本に関わることになりますが、そもそも他所の土地には見られないその土地独自の珍しいものを紹介することが多くなるので、自然と伝聞を意図する「~だそうです」という言い方が多くなるのは已むを得ません。

「ここで採れる何々は今が一番おいしいのだそう。」、「ここから見る何々は素晴らしい景色なのだそう。」、 「~だそう。」、「~だそう。」と最初から最後まで「だそう」が続くといささか食傷気味です。語尾を「だそう」で止めるのは省略形式ですから、いろいろな語尾を使う中に混ぜて使う分には別に何とも思いません。むしろ上手く使えばスパイスの効いた表現として生きてくると思います。

勘弁してくれと感じるのは、番組の最初から最後まで「~だそう。」が続くことです。全く同じことを感じているのではないと思いますが、Webでは「「○○だそう。」という使い方に違和感」という意見がありました。

違和感云々とは別問題ですが、次のような意見があることを思い出しました。平成28年第1学期に放送大学大学院で受講した「国文学研究法(15)」の印刷教材(「15 論文の文体」より)ではこのように書かれていました。
「だ」「である」の常体で文章を書く場合に、不慣れだと、文末表現が単調になってしまう傾向がある。ほとんどの文章の末尾が「だ」「だ」「だ」、「である」「である」「である」などというように、同語反復となり、単調になりがちである。
これは研究論文を書く場合の心得に関することなので、テレビ番組のレポーターの発言とはそもそもの対象が異なりますが、その根本となる発想は同じではないでしょうか。

2016/09/09

兄弟姉妹の呼称

現在通用している言語が幾つあるのか詳らかではありませんが、いろいろな観点から分類して特徴や起源を探ろうとする試みが続いています。その成果がどうなるかとは別問題として、ある言語とその言語を使う人々との相互作用に注目してみます。

「言語が思考を規定する」という考え方があります。その是非はともかく、頭の中にある言語化される前段階のイメージを実際に言語を通じて表出する際には、特定の言語の差異に直面することになります。ここでは具体的に兄弟姉妹の呼称について考えてみます。

日本語であれば、(1)相手の年齢の上下と、(2)相手の性別の2つを基準にして、以下の4通りで表現します。これは一見すると合理的に思えるので、世界中の言語が(どのように表記されるのかは別問題として)同じように分類していると考えてしまいがちです。
自分より年上 自分より年下
相手が男性
相手が女性

ところが英語やスペイン語などでは、(1)相手の性別を基準に区別しているだけで、自分との年齢の上下関係で呼称を使い分けていません。
英語 スペイン語
相手が男性 brother hermano
相手が女性 sister hermana
余談になりますが英語とスペイン語を見比べると、スペイン語の方が文法的な原則を厳守しているような印象をうける単語になっています。

さらにハングルでは、(1)相手の年齢の上下、(2)相手の性別、さらに(3)自分の性別という3つの基準で表現を変えており、しかも(4)年下の相手の区別はしないという(日本語からすると)複雑な体系になっています。
自分より年上 自分より年下
自分が男性 自分が女性
相手が男性 오빠 동생
相手が女性 누나 언니

どの言語であっても母国語として用いていれば、それで何の不自由も感じていないはずです。不自由だと感じるのは、母国語とは体系が異なる他国語に接した時です。例えば日本人が英語を母国語とする相手に「弟」を表現したい場合に「brother」としただけでは落ち着かないので「younger brother」のように表現して年齢の上下を区別しようと(無意識かもしれませんが)します。相手からすれば、英語という母国語の体系をベースにした発想をするため、わざわざ「younger」をつける相手の意図を訝しむかもしれません。

これが「言語が思考を規定する」といわれることですが、言語と思考は互いに影響し合うため、どちらが卵でどちらが鶏かという訳でもありません。ただ少なくとも言語が既にそうなってしまっていて、その言語を使う場合の発想もそうなってしまうという事実があるだけです。

言葉は月日が経つと変わっていくので、ある言葉遣いが正しいとか間違っているという判断の基準をどこにおくのかは難しいところです。将来は兄弟姉妹の呼称の分類基準が変わっていくかもしれません。方向性としては英語やスペイン語のように単純化する方向に変わっていくような気がしますが、それはとてつもなく長い年月がかかるのではないでしょうか。

2016/09/07

時間の単位としての「秒」の定義

時間の単位である「秒」の定義は、もともとは地球の自転を分割して定義されていましたが、現在ではセシウム133が基準に選ばれているそうです。

地球の自転周期が変わらないのであれば、自転周期を86,400(=60×60×24)分の1として「秒」が定義されます。ところが実際には自転周期が変動していることがわかったので、自転周期が変動していないことを前提にしていたのに、その前提が崩れてしまいました。その後現在のセシウム133を用いて「秒」を定義することになりましたが、その科学技術的な歴史を述べようと思っているわけではありません。

 現在は「周期の9,192,631,770倍」を基準として「秒」が定められていますが、こうなった理由はいろいろあるとしても、結局は過去の「秒」の定義による値に近いということが必要だったのでしょう。過去のしがらみを無視して定義できるなら、もっと別の定義がありえたと思います。

フランス革命後に「フランス革命暦」という一見合理的な暦が制定されました。過去のしがらみを捨て「1週を10日、1日を10時間、1時間を100分、1分を100秒」などとしたのは革新的でしたが、従来の生活習慣とは全くちがうので、おそらく不満が高まったことでしょう。それでも革命の勢いで押し切ろうとしたのでしょうが、さすがに反対する人々を止められなかったようです。

フランス革命に限らず、大きな変革をおこした場合には、その成功を内外にアピールするため従来とは全く違うことを実施しようとするし、もしそれが失敗したら革命自体が失敗したと思われてしまうので、有無を言わさず押し切ろうとするものでしょう。

日本では明治5年12月3日を新暦による明治6年1月1日として強引に旧暦を新暦に切り替えましたが、明治維新が革命と評価されるのか否かは別にして、強権的に制度変更を実施しました。フランス革命暦に比べればたいした問題にはならなかったかもしれませんが、話し合いで納得を得ながら手順を踏みながら変更していこうというような発想は、おそらく全く無かったことでしょう。

生活習慣を大きく変えるような施策を行おうとする場合は現代社会では関係者が納得して合意した上でおこなわなければなりません。「やってみればわかるから」とか「有無を言わさず実行」とかできる時代ではないでしょう。反対する理由も賛成する理由も、過去とのしがらみを意識していたり、経済的利益の追求だったり、理由はいろいろでしょうが、多様な観点と論点を考慮して合意形成を図っていく必要があると思います。手間暇がかかるし、時間もかかるでしょうが、急いては事を仕損じるとも言うとおり、なかなか決まらないのは必要なことだと思います。

旧宇和島藩伊達家の表門

以前から興味があった江戸東京たてもの園に行ってみました。古建築を移築して屋外展示している博物館は他にもありますが、たいていは多くても数棟しかありません。これに対してここでは30棟ほどの建物が移築され屋外展示されており、同様の施設というと愛知県の明治村が思い浮かびます。

いろいろと興味を惹かれる建物が数多くありましたが「 伊達家の門(整理番号:C5)」には驚かされました。

旧宇和島藩伊達家が東京に持っていた屋敷の表門とのことですが、まるで江戸時代の大名屋敷のようです。このような門は東大赤門として有名な加賀藩前田家藩邸上屋敷御守殿門とか東京国立博物館にある鳥取藩池田家江戸上屋敷正門などがあります。これらは江戸時代からある藩邸だったので藩の格式によって様式に制約があったかもしれませんが、藩の威光を示すため財力をかけて建てたものでしょう。

ところがこの伊達家の門は大正時代に作られたそうです。門だけでこれだけ立派であるなら、その奥にある屋敷はどれほど凄いのかと想像もできません。

2016/09/05

日本にある和風建築と洋風建築

日本にある個人住宅を大雑把に表現する場合に「和風」か「洋風」かという区別をします。和風というと「(いかにも)日本古来(と思っている)」ような外観で、洋風なら「(見たことはないけど)欧米を意識した」外観の建物をイメージします。

しかし和風建築だろうが洋風家屋だろうが、結局のところ日本の生活様式や技術文化を受け継いでいる家屋でしかありません。 例えば和風建築と言ったところで、平安時代の寝殿造りや室町期の書院造りそのままの家屋を新築する人はいないでしょうし、できないでしょう。一方で洋風建築と言っても、入り口を「玄関」と呼び、そこでは履物を脱ぐ構造であり、部屋の寸法は畳のサイズをベースに考えているはずです。

さらに重要なのは、日本の家屋には「大黒柱」という言葉で表されるように、「柱を中心」に構造を考える習慣であることです。これに対して外国(外国と言っても広いので「洋風」が想定している欧米など)では「壁を中心」に家の構造を考えます。

歴史的には、煉瓦を積み上げて壁を築くのが家作りの基本でした。そこに内装や屋根を加えると家が出来上がるので、建築物の中心を貫く柱(=大黒柱)という発想がありません。そうなると私たちが「洋風建築」と言っているのは、「日本的な構造思想」に「洋風(と言っても、欧米には実は存在しない)の外観」を足したものに過ぎず、結局は「(現代的な)和風建築」です。

単純化すると次のように言えるのではないでしょうか。
  • 寝殿造り(→平安時代的和風建築) 
  • 書院造り(→室町時代的和風建築)
  • 我々が呼ぶ「洋風」建築(→現代的和風建築)
結局日本国内にあるのは全部「和風建築」だろうと思います。建築部材や施工技術者を外国から呼び寄せて「真に洋風の建築」を日本でおこなおうとしても、おそらく建築基準法などの制約により認められないのではないかと思います。


National Geographic Channelで放映している「カー・SOS 蘇れ!思い出の名車」

ナショナル・ジオグラフィック・チャンネルでは以前から「カー・SOS 蘇れ!思い出の名車」という番組を放映しています。2016年8月からはシーズン4が放映中です。Fuzz TownshendTim Shawの二人組(+多くの作業スタッフ)がボロボロになった50年くらい前の自動車を工場から出てきたばかりのように修復する過程をまとめた番組です。錆びだらけの車を新品同様にするためには、使えなくなったパーツを交換したり、傷んだ内装を修復したりするので、ボロボロになった鉄板が魔法で綺麗になったりするわけではありません。

スクラップ同然だった車が新車並に生まれ変わった姿をみた所有者が思わず涙をこぼすのは感動的ですが、シーズン4になってお涙頂戴的な番組構成になっている感じもします。まるでTVの痛快時代劇(水戸黄門、遠山の金さんなど)のように最後にいつものパターンが出てくる「ワンパターンの安心感」が前面に出た番組作りになってきています。

また「パーツ集めの天才」(なのかもしれませんが) と謳われるのは番組制作上のキャッチフレーズに過ぎないのでしょうが、やり口があくどいのではないかと思えるシーンが増えています。

それはともかく、ボロボロの車体の板金修理の過程は、とても興味深いと思いながら視ています。専門的な工具や設備、長年の経験やスキルがあれば、たいていのものは修理できるんだなと思います。

JR東日本が静態保存されていたC58 239を復活させる過程が「SL銀河アーカイブ」で視ることができますが、同じ感想を持ちます。

話しをカーSOSに戻すと、番組を視ていて驚くのは、旧式の車のパーツを扱う店舗が存在すること、また旧式の車を所有しているクラブや展示会が多いようだということです。日本でも旧式の車の愛好家は存在しているだろうと思いますが、番組と同じような状況にあるようには思えません。

さらに、私は自宅に旧型のワークステーションを所有していますが、これをカーSOSと同じ世界観に置けるような気は全くしません。Webでは世界各地に個人的に旧式ワークステーションをコレクションしている人達がいる様子が窺えますし、日本でも表には出てきていませんが、おそらく所有者はいるでしょう。しかしもう何年も前から「ジャンクという文化が理解されなくなっている」として秋葉原から撤退していくショップが少なくありません。

自動車は、旧いクラシックカーでも最新のスポーツカーでも(ある程度は)所有者以外の家族との共有意識を持ちえるのではないかと思います。これに対してワークステーションだと、所有者だけの個人的な嗜好品に過ぎず、家族からするとガラクタの山でスペースの無駄と見えてしまう側面が強いのではないかと思います。

英単語rememberの使い方

大修館書店の『アクティブ ジーニアス 英和辞典』では他動詞rememberについて次のように説明しています。
  1. [SVO]<人が>O<人・物・事> を(自然に)思い出す;(意識的に)思い起こす(↔forget)
  2. [SV to do]忘れないで・・・する
  3. [SV doing]・・・したことを覚えている
[SV to do]の訳語が「忘れないで・・・する」となっています。ここで訳語を「・・・することを覚えておく」と考えるのは良くないのでしょうか。外国語と自国語の語義が(言外の意味も含めて)全く同じというわけにはいかないのを承知した上で、rememberの訳語に「忘れない」という語が現れることには違和感があります。

同じ辞書で 他動詞forgetの用法をみると、次のようになっています。
  1. [SVO]<人が>O<名詞など> を忘れ(てい)る
  2. [SV doing]・・・したことを忘れる
  3. [SV to do]・・・するのを忘れる
このように全て「忘れる」という意味の派生になっています。そうであればrememberの場合は「覚えている」という意味の派生にしておけば良くて、「忘れないで」という訳語を使わない方が混乱がないのではないかと思います。

「覚える」と「忘れる」は対義語です。大修館書店の『明鏡国語辞典 携帯版』では次のように説明しています。
  • 【覚える】記憶にとどめる。記憶する。
  • 【忘れる】前に覚えていたことが思い出せなくなる。記憶が無くなる。
このように反対の意味を持つ語です。「覚える」とは「忘れていない」だし、「覚えていない」は「忘れる」ということですが、こういう知識を援用して英語の意味を日本語で説明するのは不必要に混乱を招くことになると思います。例えばforgetの場合[SV to do]の意味を「・・・するのを覚えていない」としても、forgetのニュアンスは伝わりますが、forgetが本来持つ根源的な語義とは違うと思います。

Collinsの『New Student's Dictionary』では「If you remember people or events from the past, you still have an idea of them in your mind and you are able to think about them.」と説明しています。これは「記憶に残っている」ということで、すなわち「覚えている」ということです。それは「忘れていない」というニュアンスがあるかもしれませんが、「忘れない」という意味を前面に出してきてはいけないと思います。

このようなことを考えてみたのは「Remember Pearl Harbor」という表現を日本語ではどう訳すのか迷ったからです。
  1. パールハーバーを覚えている。
  2. パールハーバーを忘れるな。 
  3. パールハーバーを思い出せ。
この中では1番目の表現が中心となる意味であって、気持ちの上では派生的に2番目や3番目も出てくるとは思いますが、少なくとも直接的な日本語訳ではないと考えます。

2016/09/02

国立科学博物館のH68/TR

上野にある国立科学博物館に行ってみました。いつもは東京国立博物館や国立西洋美術館に行くことが多いので、国立科学博物館は素通りしていました。

 博物館や美術館はどこもそうですが、じっくり見ようと思えば幾らでも時間をかけられるし、さっと一瞥するだけにしておけば、あっという間に全部見終えられます。今回は入館したのが午後遅くだったので、ゆっくり見たいと思いながらも、閉館時間が気になっていました。かなり面白い展示が多くて、全部見られなかったので、機会を改めてまた来たいと思います。

科学技術の進化の展示の中に、NECのTK-80BSやPC-8001の基盤がありました。今でこそNECの知名度は断トツという訳でもありませんが、昔は個人向けコンピュータといえばNECのPC-8001/8801/9801という時代があったものです。

他にもH68/TRの基盤が展示されていたのには驚きました。名前だけは知っていたのですが現物を見たことがありませんでした。この頃はパソコンとは呼ばれず「マイコン」と言っていました。「マイクロ・コンピュータ」を略した言葉ですが「マイ・コンピュータ」の意味も含んでいた時代でした。