テレビが登場した直後に大宅壮一が「一億総白痴化」と論じました。ウィキペディアでは次のようにかかれています。
もともとは『週刊東京』1957年2月2日号における以下の論評が広まったものである。これを踏まえて、テレビを視ないことに積極的な意義を見いだす志向が生まれたと思います。当時であれば、テレビを視なければ、本を読むとか、レコードを聴くなどすることになったでしょう。テレビは受動的な娯楽ですが、読書や音楽鑑賞は能動的な娯楽である側面を持つため、「テレビを視るのを止めて、小説を読破した」などという方が好ましく思われるという効果が期待されます。
テレビに至っては、紙芝居同様、否、紙芝居以下の白痴番組が毎日ずらりと列んでいる。ラジオ、テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、『一億白痴化運動』が展開されていると言って好い。
このようなテレビ黎明期の風潮が今日でも続いているようですが、社会は変わっているのではないでしょうか。
まずテレビは地上波だけではなく、BS放送やCS放送がおこなわれるようになっています。テレビを視ているというと、民放のドラマや歌番組を視ているという意味に受け取られることがありますが、地上波の民放は見ていなくても、BSやCSでCNNやBBCとかドキュメンタリー・チャンネルを視ているかもしれないわけです。
さらに最近では、PCやスマホで動画を視るのが、一般的になってきています。場合によっては、テレビで放送された作品が動画で視られたりしますから、いうなれば「テレビは視ていない」けど「同じものを(PCやスマホ)の動画で視ている」ことができてしまいます。こうなってしまうと、「テレビを持っていない」としても、「そのような作品を視ることが出来ない」を意味しないのです。
今日においては、「テレビを持っていない」というのは、家電製品としてのテレビを所有していないというだけの意味でしかないでしょう。その発言の背後に「テレビで放送される作品に興味がない」とか「そのような作品をみたことがないし、本を読む(または音楽を聴く)ほうが好きだ」 ということを意味しません。
時代は変化しているのに、言葉が追い付いていない印象を受けます。それを意識したうえで発言するようにしたいと思います。そこを曖昧にしたままにすると「ご飯論法」のようなことも出来てしまいますから、注意しておくに越したことは無いでしょう。
0 件のコメント:
コメントを投稿