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2025-02-08

2025年2月の「100分 de 名著」はデュルケームの『社会分業論』

NHKで放映されている「100分 de 名著」を全て視ているわけではありませんが、2025年2月の『社会分業論』(エミール・デュルケーム)は視るつもりです。また別売りのテキストも購入し、こちらは既に読み終えました。

 

ちくま学芸文庫から出ている『社会分業論』は、文庫本なのに、800ページもあって、しかも価格が2,090円(税込)ということで、ボリュームも値段も信じられません。これを読まずに『社会分業論』を軽々しく論じることはできませんが、NHKのテキストで解説されている事柄に共感しました。88ページに書かれている内容を、ちょっと長くなりますが、引用します。

 社会から分離した個人は、すでに見たように、事実として自律していきます(自律せざるをえません)。同時に、他者や社会への依存が始まるのです。社会からの分離によって個人の自律が可能になりますが、同時に、他者や社会への依存が必要になります。依存なき自律は、自律というより孤立です。

他方、 本来社会から分離しているはずの「個人」が自律なしに依存するのであれば、もはや一体化でも依存でもありません。それは、フロムが見抜いたように「自由からの逃走」であって、「癒着」というべきでしょう。

 

通俗的には、自律した個人は、何者にも依存しない(だろう、はずだ)というイメージがあります。しかし、自律した個人は同時に他者や社会に依存するのであり、依存しない自律は、もはや孤立であるというのは、虚を突かれた思いです。

 

現代社会は、「自律」を強調するが余りに、必要以上に「依存」を拒否しすぎるきらいがあると思います。しかも「自律」するというのは、決して容易ではありません。その挙句に、自律しない個人が依存だけしてしまうと、容易に権威主義や全体主義に陥ってしまうという主張には賛同します。

 

私の個人的な体験においても、「自分は、他人に指示されたことを坦々とこなしたいんだ。自分自身でやることを考えるのは嫌なんだ」と訴える人物に遭遇したことがあります。このような主張をする存在が世の中の一部なのか多数を占めつつあるのか、判断する情報を持ち合わせていませんが、それに流されてしまわないように意識していたいと思います。

2022-05-05

「彼女は小学生だけどすごい政治学者なのだ」

NHKが放送している「100分 de 名著」の2022年4月のテーマはアリストテレスの『ニコマコス倫理学』です。放送と併せて発売されるテキストを購入するようにしています。今月の解説者は東京大学大学院教授の山本芳久さんです。


テキストの30頁では、「若者に倫理学は向かない?」というタイトルで倫理学が扱う問題に対する傾向について論じています。その例示のために、アメリカのような飛び級制度がある国を想定し、「彼は小学生だけどすごい数学者だ」とは言うが、この記事の標題のような、「彼女は小学生だけどすごい政治学者なのだ」とは言わないだろうと書かれています。それは数学のような学問分野に必要とする厳密性は年齢に依らないものの、倫理学が扱おうとする問題にはある程度の人生経験の蓄積を必要とするからだと記しています。

 

これは、まったくその通りだと思います。 しかしながら、この文章を読むまで、このような事に気付いていませんでした。具体的な報道記事を指摘できる訳ではないのですが、漠然と何かのニュースで米国では10代なのに理数系の大学院で先端的な研究をおこなっているという様な記事をみかけたような気がします。しかしあらゆる学問分野で同様なニュースが報じられたかというと、実際に見聞きしたことはありません。それは単に私が知らないだけだと思っていましたが、学問分野に依るのだという指摘には思いも至りませんでした。


短い人生で、古今東西の森羅万象を漏れなく身につけることなど、出来ようもありません。少しでも近づこうとする努力のなかで、ひとつの得た情報を、それ以外にも適用していくことは少なくありません。しかしそこには落とし穴がないわけではない事に、今回気づかされました。

2021-08-10

100分 de 名著「アレクシエーヴィッチ」

2021年8月に放送される100分 de 名著はアレクシエーヴィッチの「戦争は女の顔をしていない」です。著者であるアレクシエーヴィッチはウクライナの生まれです。20世紀末にソ連が崩壊してしまい、21世紀におけるロシアとウクライナの関係が、独ソ戦の頃のソ連の中であるロシアやウクライナの関係から、どのように変わったのかはよくわかりません。


WW2について学校で学ぶ事柄や、書籍などで語られている事柄は、100分 de 名著のテキストで次のように書かれている事柄(7ページ)が大多数だと思います。

「いつどこでどう兵が動いたか」「どういう戦略によって勝利したのか」などといった戦場の「事実」 


しかしアレクシエーヴィッチの関心は、同じくテキスト(7ページ)に書かれている、以下のような事柄です。

それよりも、普通の人々が戦争に巻き込まれて、どんな経験をしたのか、どんなことを感じたのかを大事にしています。


戦争の「事実」を語るのは、裏付けとなる文書などが残されている場合もあるでしょうし、「客観的」で望ましい方法と一般に思われているのでしょう。それに対して、個々人の記憶は、本当の事なのかどうかすら怪しい「主観的」な話しでしかなく、しかも記憶に混乱が無いかとか、意図的に話しを改変したり、もしくは隠したりしていないかなど、取り扱いの難しい素材です。ひとつひとつの話しについてみれば、全てが紛れもない真実とは言えないかもしれませんが、テキストで以下のように書かれている事(23ページ)は、私もその通りだと思います。

たとえ一つ一つの証言に嘘や偽りがあっても、それらがたくさん集まることで、互いに是正され浄化される、というのが彼女の考えです。


これまで行われてきたような方法で歴史を語るのが間違っているという事ではないと思います。しかしそれだけではない方法もあるということを、今月の100分 de 名著から学べる気がしています。

2021-06-03

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』

2021年6月に放送される100分 de 名著はレイ・ブラッドベリ『華氏451度』です。タイトルや著者の名前は耳にしたことがあるような気がしますが、何も知らない状態です。解説は戸田山和久さんで、NHK出版から出た『論文の教室』を読んだことがあり、お名前は存じていました。


『華氏451度』は1953年に出版されましたが、小説の舞台となるのは約100年後です。未来を扱うと何でもサイエンス・フィクションになるわけではないと思いますが、ある種のSF小説です。作品の描く世界は「明るい未来」というようなものではないようです。1949年に出版されたジョージ・オーウェル『1984年』のような印象です。これらの作品はWWIIが終わり米ソ冷戦時代が始まったという時代背景を踏まえているのでしょう。


『華氏451度』にしろ『1984年』にしろ、コントロールされた社会を描きますが、今日の社会情勢を窺わせるようでもあり不気味です。娯楽小説ではないのでハッピーエンドにはならないのですが、小説の中の世界ならばハッピーエンドでも悲劇的な結末でも構わないとしても、現実が悲惨な結末を迎えるのは耐えられません。


100分 de 名著では放送に併せてテキストが出版されています。その最後は「引き継ぎなさい。」で締めくくられています。この小説の特徴のひとつが「すぐに答えを迫る社会」として描かれており、反射的な反応が求められる傾向は現実社会でも強まっています。しかしゆっくり考える反省的思考が必要でしょう。


『華氏451度』そのものは読んだことがないので、早々に読んでみようと思っています。

2021-04-07

池田晶子『14歳からの哲学』を購入した

NHKで放送している「100分 de 名著」の2021年3月のテーマは「災害を考える」でした。いつもはテーマとなる書籍1冊を一ヶ月かけて読んでいくのが普通ですが、その回ではテーマに関連する4冊の書籍が紹介されました。


この番組で取り上げられている書籍は、その番組中で粗筋を紹介している訳ではありません。できれば自分で読んでみるのが望ましいだろうと思います。番組は、その書籍を読むための入口を提供しているに過ぎないのだと思います。


3月の番組で取り上げられていた『14歳からの哲学』(池田晶子)を購入し、読み始めています。タイトルで「14歳」を謳っているように、その年齢を対象にして執筆されているので、読みやすいのですが、易しくはありません。専門的な用語や言い回しが多用されている、翻訳された哲学書では、読み進めることすら困難であることが多いのですが、それに比べると本書は、格段読みやすいです。しかしスラスラ読めてしまいますが、表面的な理解で終わってしまうか、その中に入っていくのかは、読者の力量にかかっていると思います。

2021-02-24

塚谷裕一「テレビ番組における虚構とサイエンスコミュニケーション」を読んで

東京大学出版会の広報誌「UP」通巻580号(2021年2月5日発行) を読んでいて、「テレビ番組における虚構とサイエンスコミュニケーション」に興味をひかれました。書かれているのは、あるテレビ番組の制作担当者からの問い合わせに対応した際の経験を踏まえて科学者としてのあり方を論じています。


経験談として事例を2つあげていますが、その具体的な経過は時と場合によって夫々でしょう(事例とはそういうものです)から、また別な経緯もありえるでしょう。そして最後に「改善は可能か」というタイトルで、次のような事を語っています。

一つは、事前の下調べリサーチに十分な時間と人的資源を当てることだ。予算の少ない番組だと、製作チームのうちの最若手あたりに事前リサーチをやらせる傾向がある。これはきわめて危ない。(後略)


このような問題は、テレビ番組制作サイドに限らず、現代社会の各方面でみられる傾向ではないかと思います。IT関係の「プロジェクト」などは特にそうかもしれません。


要するに「下調べリサーチ」に価値を認めていないのでしょう。それ故に、最若手にやらせておけば十分だという発想が出てくるのでしょう。しかし最若手という存在は、様々な雑用を押しつけられる存在です。あれもこれもやらなければならないので、時間もないでしょう。結局は、「下調べリサーチ」というのは、そのような「雑用」のひとつにすぎないと思われているということです。知的作業を「無駄」(とまでは言えなくても)だと判断しているのかもしれません。


このようなことを考えていた時に、NHKで放映されている「100分 de 名著」で視た場面を思い出しました。2021年2月のテーマは、フランツ・ファノン『黒い皮膚・白い仮面』でした。その第4回目(2021年2月22日放送)で聞き手の伊集院さんが、テレビ局のトイレで見た「ここで寝ないでください」という張り紙に関するエピソードを語ります。これは「下調べリサーチ」の問題とは違いますが、通ずるところがあるように思います。

2020-12-05

100分 de 名著「伊勢物語」

NHK Eテレで放送されている「100分 de 名著」で2020年11月に取り上げた作品は「伊勢物語」でした。伊勢物語というと「昔、おとこありけり。」という書き出しで有名ですが、実は作品を通読したことはなく、どのような作品なのか知りませんでした。


平安時代の作品であることは知っていました。同時代の作品としては『源氏物語』が有名なので、同じような感じなのだろうと思っていましたが、随分と様相が異なるようです。小説というよりも、和歌を主体として若干の詞書が添えられたもののようで、全体で125章段ありますが、とても短いので、表面的に読むだけなら時間はかからないでしょう。


岩波文庫から『伊勢物語』が出ているので買ってみようと思ったのですが、あいにくと近所の書店では在庫がありませんでした。その代わりに高樹のぶ子著『業平』があったので買ってみました。


『業平』は『伊勢物語』の翻刻や現代語訳ではなく、オリジナリティのある小説なので、『伊勢物語』を読むのとは違うと思いますが、また違った趣で楽しく読んでみようと思います。

2020-06-09

「空間」と「時間」という感性の形式

NHKで放映されている番組「100分 de 名著」の2020年6月のテーマは「カント 純粋理性批判」です。当初の予定では2020年5月に放映されるハズでしたが、COVID-19で制作が影響を受けたようで1ヵ月延期となりました。

NHK出版から出ているテキストでは、34頁に次のような記述があります。
「空間」と「時間」という感性の形式(感性にもともと備わった二つのフレーム)を抜きにして、事物を捉えることはできません。

「純粋理性批判」というのはイマヌエル・カント(1724~1804)の代表作で、難解な著作としても有名です。もっともこの書籍に限らず、哲学の書籍は、どれも難しいという印象を持つ人が多いでしょう。

話を戻して、「純粋理性批判」の解説の中で「感性の形式(空間と時間)」という説明が現れた事には驚きました。「空間と時間」というキーワードから思いつくのはアインシュタイン(1879~1955)による相対論における4次元空間(3次元空間+時間)の事です。

私たちが生きている世界は「3次元空間」なので、次元を落として「2次元空間(平面)」とか「1次元空間(直線)」を理解することは容易です。しかし次元を上げることは直観として理解できないし、図示することも不可能です。しかし相対論では「3次元空間」の次元を上げると「時間」を加えて「4次元空間」で理論を組み立てています。

カントは哲学であり、アインシュタインは物理学です。両者は時代が違いますし、学問分野も全く違うので、双方に交流があったとも思えません。そうでありながら、「空間」と「時間」を組み合わせることに自然な繋がりをみていることには、驚きを感じます。

2019-01-08

オリエントとは

去年放送された「100分 de メディア論」で紹介された『オリエンタリズム』(E・W・サイード)を図書館で借りてきました。本来なら腰を据えて読むべきところですが、目を通すだけでも大変そうなので、貸出期間中はざっと眺める程度になりそうです。

最初の「第1章 オリエンタリズムの領域」 に次のような記述がありました(75頁)。
オリエントという語が、(中略)、極めて厳格に理解された。
この引用で略した箇所は次のように理解しました。要するに「オリエンタリズム」という語は、次の3種類として理解される場合があるということです。
  1. 単にアジア的東方全体の同義語 
  2. 遠く隔たっているものやエキゾチックなものを漠然と指し示すもの
  3. イスラム的オリエントを指すもの
「オリエンタリズム」という語の意味するところが、世間一般の理解として、この3種類だけという訳ではないと思います。しかしサイードは上述したような理解をしているのは間違いないでしょう。

オリエント(日本も含まれているのかもしれませんが)というものは、オリエントにいる人々が意識しているというよりも、(主として)西ヨーロッパの人々が描くイメージなのでしょう。もしかすると日本はオリエントに含まれていないかもしれません。

2018-12-27

万葉集の東歌とオリエンタリズム

放送大学教養学部で「『古事記』と『万葉集』('15)」を受講しています。年が明けると単位認定試験が行われます。古事記にしろ万葉集にしろ、学校で学ぶことが多いし、ヤマトタケルの物語など有名な話は子供向けの書籍にもなっていますから、全く知らないわけではありません。しかし通読したことがなく、断片的な知識に留まっています。これを受講したことが、古典的名作を深く知るためのキッカケになれば良いと考えています。

今年最後の講義は「第13章 東歌と防人歌」でした。万葉集の後に編纂された和歌集との大きな違いは、朝廷の名立たる歌人ではない、東国とか防人のような都以外の歌謡が採録されていることだと思います。印刷教材には「当時の東国民謡をそのまま採録したものとは言い難い」(219頁)とあります。東歌や防人歌が『万葉集』に含まれているのは、時代を踏まえた意味があり、単なる「一大国民歌集」(215頁)という訳ではないとのことです。

このような事情があったとしても、『万葉集』にある東歌には「その異域性を一種のエキゾチシズムとして感じさせる意味」(220頁)があり、E・サイードの主張する『オリエンタリズム』と通じる意識があったと述べています。

ここでサイードの『オリエンタリズム』に言及された事に驚きました。NHKで放映されている「100分 de 名著」の特番として「100分 de メディア論」が放送されましたが、そこで中島岳志氏が取り上げた『イスラム報道』(サイード)の一環で『オリエンタリズム』も取り上げられていました。これらの書籍を読んだことは無かった(存在も知らなかった)ので、読んでみようかと思っていたところでした。

一見すると全く異なる分野(古典文学とメディア論)なのに、同じ書籍が参照されていることで、両者が繋がっていることを知りました。多方面に興味関心を持っていると、どこかで繋がっていくのだろうと思います。

2018-12-23

「本質」は「形」

NHK Eテレで放映されている「100分 de 名著」の2018年12月のテーマはスピノザのエチカでした。別売テキストには次のようなことが書かれています(40頁)。
古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。
どういうことなんだろうと思いましたが、先を読むと次のようなことが書かれています。
つまり、家畜化された馬が持っている力と、シマウマが持っている力はその性質が大きく異なっている。力の性質に着目すると馬とシマウマはまるで別の存在として現れます。にもかかわらず、私たちはそれらを形でとらえるから、両社を同じく馬だと考えるわけです。
言わんとしていることが分かってきました。さらに先には次のようなことも書かれています。
「たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである」(『スピノザ 実践の哲学』前掲)。
本質を形で捉えると、農耕馬と競走馬はつまりは馬だ、ということになります。しかし性質で捉えれば、農耕馬と牛は同じものだ、となるのでしょう。しかし私たちは農耕馬と牛が同じだとは考えにくいのです。

上述したのは一例にすぎません。より開かれた見方ができるようにしていきたいと思いますし、そのための示唆を得られたと感じます。