NHKで放映されている「100分 de 名著」を全て視ているわけではありませんが、2025年2月の『社会分業論』(エミール・デュルケーム)は視るつもりです。また別売りのテキストも購入し、こちらは既に読み終えました。
ちくま学芸文庫から出ている『社会分業論』は、文庫本なのに、800ページもあって、しかも価格が2,090円(税込)ということで、ボリュームも値段も信じられません。これを読まずに『社会分業論』を軽々しく論じることはできませんが、NHKのテキストで解説されている事柄に共感しました。88ページに書かれている内容を、ちょっと長くなりますが、引用します。
社会から分離した個人は、すでに見たように、事実として自律していきます(自律せざるをえません)。同時に、他者や社会への依存が始まるのです。社会からの分離によって個人の自律が可能になりますが、同時に、他者や社会への依存が必要になります。依存なき自律は、自律というより孤立です。
他方、 本来社会から分離しているはずの「個人」が自律なしに依存するのであれば、もはや一体化でも依存でもありません。それは、フロムが見抜いたように「自由からの逃走」であって、「癒着」というべきでしょう。
通俗的には、自律した個人は、何者にも依存しない(だろう、はずだ)というイメージがあります。しかし、自律した個人は同時に他者や社会に依存するのであり、依存しない自律は、もはや孤立であるというのは、虚を突かれた思いです。
現代社会は、「自律」を強調するが余りに、必要以上に「依存」を拒否しすぎるきらいがあると思います。しかも「自律」するというのは、決して容易ではありません。その挙句に、自律しない個人が依存だけしてしまうと、容易に権威主義や全体主義に陥ってしまうという主張には賛同します。
私の個人的な体験においても、「自分は、他人に指示されたことを坦々とこなしたいんだ。自分自身でやることを考えるのは嫌なんだ」と訴える人物に遭遇したことがあります。このような主張をする存在が世の中の一部なのか多数を占めつつあるのか、判断する情報を持ち合わせていませんが、それに流されてしまわないように意識していたいと思います。
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