どういう経緯で知ったのかは忘れてしまいましたが、数年前から読もうと思っていた『かなづかいの歴史』(今野真二)を図書館で借りて読みました。新書なので本格的な専門書よりは著者としても一般向けに書かれているようです。それでも、かなり専門性の強い内容でした。すべてを理解できたとは言えないのですが、とても興味深かったのは間違いありません。
本書の「おわりに」で、次のような記述があります。ここに本書の意図が現れていると思います。
「かなづかいの歴史」というテーマの中に、「かなづかいについて誰かが考えたことの歴史」を含めることはできるが、「かなづかいについて誰かが考えたことの歴史」は「かなづかいの歴史」そのものではない。
近世以前に書かれた歴史史料や、明治から終戦までに現れている「かなづかい」は、今一般的に使われている「かなづかい」とは、いろいろと違います。大雑把には「発音した通りに書く」のですが、すべて「発音した通りに書く」わけでもないのです。つまり「これは」と書きますが、「これわ」と発音しているので、全て発音した通りではありません。さすがに「けふは」と書いて、「きょうは」と発音するわけではないのですが。
戦後の「かなづかい」には、いろいろな例外事項があり、批判も多いようです。戦前までの「かなづかい」に戻すべきとの主張もあるようですが、それで何が解決されるようになるのか議論が必要でしょう。もしくは完全に発音した通りの「かなづかい」とすべきなのかと言うと、それはそれで、問題をはらんでいるように思います。
「かなづかい」が云々されるのは、文字として記録されたものと、現実に発音されたものが、次第に乖離していくところにあると思います。仮に完全に発音したように表記することに決めたとしても、ある時点では「文字」と「発音」が完全一致しているかもしれませんが、、時がたてば乖離していくのは避けられないでしょう。そのときに法律のように長期間にわたり有効であることが求められる文はどうなってしまうのか、また学校教育では世代が異なると教科書の文体も変わっていってしまうのか等々、気掛かりです。