2021-07-31

That's the rule.

The Japan Times Alphaで連載されているコラム「Odds & Ends」の7月のテーマは「Play」でした。2021年7月23日版に掲載された第4回目のサブタイトルは「Phrasal verbs」でした。このコラムで句動詞を扱う事はよくありますが、そこでは次のように指摘されます。

If you use a pronoun, the pronoun must separate the words. That's the rule.


 句動詞がseparableである場合、目的語を、句動詞の間に入れても良いし、句動詞の後に続けても構わないようです。しかし目的語が代名詞であれば、句動詞の間に入れなければなりません。後に続けることは出来ません。「That's the rule.」ということなのですが、英文法の規則なので、日本人が異議をとなえるような問題ではありませんが、何故このような規則ができたのでしょう。


英語のような言語の規則は、数学や物理のような絶対的な規則とは違います。今日では誤りとされていても、過去には問題なかったとか、未来には問題ないかもしれないとか、普通にあり得ると思います。日本語だって、言葉の乱れだと眉を顰める人もいても、常に変化しています。「ら抜き言葉」とか「さ入れ言葉」とか、僕自身は誤用だと思っていますが、問題ないと主張する人はいますし、将来的には日本語文法に組み込まれることになるかもしれません。


さて話を戻して、英文法における句動詞で目的語が代名詞だった場合の「規則」とは、どういうことなのか、もう少し詳しく知りたいと思っています。英語は世界中で使われていますし、地域や集団によっては、変格文法となっている場合があるんじゃないかとも思います。英語の文法も次第に変化していくと思うので、今は誤用でも未来は誤用とは言えない時代が来るのかもしれません。

COVID-19ワクチンのモデルナとファイザー

COVID-19ワクチンに関する報道を参照していると、今年になってワクチン接種が始まったのは良いとしても、その後の展開がスムーズとは言い難いような気がしています。それでも次第に接種対象範囲が拡大してきつつあり、自分も接種できる可能性が出てきました。


ワクチン接種は、病院などでおこなうか、行政の大規模接種会場などでおこなうか、選択できます。病院などではファイザーのワクチンが、大規模接種会場ではモデルナのワクチンが使われることが多いようなのですが、行政の大規模接種会場でもファイザーのワクチンを使っているところがあります。


COVID-19のワクチンとして何を選択するのかということを、悩むことになるとは思いませんでした。今日の夕食は和食と洋食のどっちにする?というような選択とは違うので、慎重に考えたいのですが、専門的知識を持っているわけではないので、何をどう考えたら良いのか困ります。Webを検索すれば、それなりに情報がみつかると思いますが、見つかった情報が正しいのか誤情報を含んでいるのか判断する能力は持ち合わせていません。


いろいろ考えても仕方がないので、日程優先でワクチン接種の予約をとろうと思います。その結果としてモデルナであってもファイザーであったも、その良し悪しを判断する知識はないので、どっちでも構わないと思っています。


ただし、今回選択したワクチンの有効期限が何時までなのかは気になるところです。永遠に効果が持続すれば有り難いところですが、そういうわけにもいかないでしょう。次にワクチンを接種する時点で、今回選択したワクチンと同じでなければならないのか、別なワクチンになっても影響ないのか、ちょっと心配です。

CANON MG3130からTS3330へ

自宅でWindows10に接続して使用していたプリンタはCANONのMG3130です。これは2011年11月上旬に発売されたモデルですが、発売と同時に購入した訳ではなく、何時頃に購入したのかは覚えていません。しかし10年近くは使っていると思います。


ちょっとした資料とか、Webページを印刷するのに使っている程度で、写真や葉書などは殆ど印刷していません。しかし次第に調子が悪くなってきており、1年ほど前から、新しいプリンタを購入した方が良いだろうと考えていました。


まず最初に異常を感じたのは、印刷が乱れることです。このような場合には「【インクジェットプリンター】プリントヘッド位置を調整する(PIXUS MG3130)」をおこなうと良いようなのです。しかしプリンタヘッド位置調整シートを印刷してみると、これが乱れまくりで、大丈夫だろうかと心配になるくらいでした。心配したとおり、印刷の乱れは解消しません。何度か試していたら、大目にみれば比較的マシかもしれない程度にはなりました。もうこの時点で、新しいプリンタを買った方が良いかもしれないと思っていました。


新しいプリンタを買わずに、なんとか印字状態を改善できないものだろうかとWebを検索していたら「【インクジェットプリンター】エンコーダーフィルム清掃手順 (PIXUS MG3130)」という情報を見つけました。エンコーダフィルムが汚れていると印字に影響が出るようです。多少手間がかかりますが、この情報に従って清掃してみたら、印字状態が劇的に改善されました。それでもまだ多少の乱れはありますが、これならなんとかなりそうです。


印刷状態が良くなってホッとしていたら、今度は「【インクジェットプリンター】用紙がうまく送られない/「用紙なし」のエラーが発生する(PIXUS MG3130)」という不具合に見舞われました。用紙が多ければローディングされるのに、残り少なくなるとエラーになることが多いようです。そうなった時には、一枚ずつ紙送り時に手差しで補助するとか、下敷きを差し込んでおいて厚みを持たせるとか、小技を駆使して凌ぎました。


数か月前からはプリンタの電源を入れると「P07」というエラーがでるようになりました。これは「インク吸収体がいっぱいで印刷できない」という状況のようです。数か月前の段階では、いったん印刷開始ボタンを押せば、印刷などが出来る状態になったので、それで使っていました。


ところが先日、ついに「P07」エラーが出ても、印刷開始ボタンでエラーが解除できなくなりました。こうなるとキヤノンに修理を依頼することになるのが本来の手順ですが、2017年9月末でMG3130の修理対応が終わったようなので、もうどうにもなりません。


否応なしに新しいプリンタを購入しました。今度はCANONのTS3330です。たいしたものは印刷しないので、このモデルで十分かと思いました。家電量販店に行ったら、たまたま白色モデルの在庫がありました。MG3130は黒色モデルだったので、TS3330も黒色モデルにしようと思っていましたが、取り寄せになると最悪1ヵ月くらいかかるかもしれないようです。東京オリンピック開催中で物流に遅れが出ているようですし、そうでなくても8月はお盆シーズンで何かと遅れが出る可能性があります。プリンタ本体が黒色だろうと白色だろうと、本体機能が違う訳ではないので、店頭在庫のTS3330白色モデルを買いました。

2021-07-27

They're not games.

The Japan Times AlphaでJames Tschudyさんが連載している「Odds & Ends」の7月における月間テーマは「Play」でした。その第2回目はサブタイトルが「Verbs」でした。その中で次のように書かれていました。

Don't use "play" with sumo, judo, karate and boxing. They're not games.


この文の前には「The Japanese women's soccer team, Nadeshiko Japan, play the Westfield Matildas from Australia on July 14.」とか「Many tennis fans wanted to see Roger Federer play Novak Djokovic.」などの例文が挙げられています。


コラムで書かれているように、「相撲、柔道、空手、ボクシングで『play』を使わない。それはゲームではない」というのが、英語圏の常識なのか、僕が何かを勘違いしているのか、ちょっとよくわかりません。Amazonには「Rules to play Sumo Wrestling」という出品があるようですし、Weblioには「play sumo」という用例が掲載されています。


要するに、どのように理解すれば良いのでしょうか。

テキサス州パリス

The New York Times Weekend International Editionの記事を読んでいたら、次のような文がありました。

Nor do I know whether the home city where he enjoyed recognition is Paris or Paris, Texas.


パリと言えば、フランスの首都であり、ロンドンやニューヨークと並んで、世界的に最も有名な都市でしょう。しかし、上述した文を読んで驚いたのは、まず最初に、テキサス州にパリスという町があることです。ウィキペディアの説明では、次のように書かれています。

パリスという名はライトの従業員の1人、トーマス・ポティートが、フランスの首都パリにちなんでつけたものであった。


次いで、そして最も大きく驚いたのは、英語表記なら双方とも「Paris」なのに、日本語で表記すると、フランスの首都が「パリ」で、テキサス州の地名は「パリス」になってしまうことです。本来の発音を考えれば、フランスの首都も「パリス」であって、日本語で「パリ」となっている事の方が、変だというべきなのでしょう。


外国由来の単語を日本語にした時の表記は、統一性があった方が望ましいのかもしれませんが、結構バラバラです。日本語を学ぶ外国人が苦労しているという話を聞くこともあります。その時に聞いたのは、「何故『Hong Kong』が『ホンコン(香港)』なのに、『King Kong』が『キングコング』なんだ」という疑問でした。何故「King Kong」は「キンコン」ではないのか。何故「Hong Kong」は「ホングコング」ではないのか。このような疑問は尤もだと思います。「歴史的な経緯でそうなっている」という以上の答えを持ち合わせている日本人は存在しないのではないかと思います。

2021-07-26

VSI版OpenVMSのコミュニティライセンスを更新した

OpenVMSのHobbyistライセンスからHPEが手を引き、VSIがコミュニティライセンスを提供するようになって1年が経ちました。HPEの頃は、毎年ライセンス発行を依頼していました。ところが驚いたことに、VSIからはライセンスの有効期限前に新しいライセンスが送られてきて、なんて親切なんだと思いました。


Googleグループでも「VSI CE License PAKs」において報告されていて、同時期に世界中のユーザにコミュニティライセンスの更新版が届いているようです。 

2021-07-24

LibreOffice CalcでVBA

ワープロとか表計算ソフトのようなアプリケーションを総称して「オフィススイート」と呼ぶようです。最も使われているのはMicrosoft Officeだと思います。しかし私は随分前からLibreOfficeに移行しています。Microsoft WordやExcelのファイルを開くことは可能ですが、見た目が崩れてしまうことがあるので、LibreOfficeをMicrosoft Officeの無料の代替品だと思うと失望するかもしれません。しかし無料で使えるワープロや表計算ソフトなど一式が揃うのは有り難いことですし、Microsoft Windowsだけではなく、NetBSD/i386上でMateデスクトップ環境を使っていてもLibreOfficeを利用できるので、私にとっては大きなメリットです。


Microsoft Office上で使えるVBAは、LibreOffice上で使えるマクロ機能とは違うものです。ちょっと思うところがあり、LibreOfficeでVBAが使えないだろうかと調べてみたら、「LibreOfficeでVBAを使う方法。1行おまじないを書くだけ!」という情報を発見しました。Windows10で利用しているLibreOfficeはバージョン7.1.4.2です。さっそく「Option VBASupport 1」というおまじないを入れてVBAが動くか確認してみました。ところがエラーが出てしまいます。


おまじない以外にも何かコツがあるのだろうかと調べてみると「libreofficeでOption VBASupport 1 を設定してもランタイムエラー35が出る件」という情報を発見しました。VBAを記録する場所によってエラーが出てしまうようです。


その情報に従ってVBAの記録先を変えてみたら、動作することを確認できました。


LibreOfficeで動くVBAの互換性がどの程度なのか分かりませんし、仮に「完全互換」を謳っていたとしても、微妙な挙動まで完全に一致する保証がある訳ではありません。それを承知の上で、VBAを学ぶ環境としてLibreOfficeが使えそうです。

2021-07-10

フィリップは幸福だった。

先月からサマセット・モームの『人間の絆』を読んでいましたが、最後まで読み終えました。主人公であるフィリップが新しい人生を歩みだそうとしたところで物語が終わり、ハッピーエンドと言えるのではないかと思います。


この作品は、フィリップが問いかける「いったい人生とは、なんのためにあるのだ?」に対して「人生に意味などあるものか。」という答えを提示する物語でもあると言われています。その答えを得るために、フィリップがクロンショーから貰ったペルシャ絨毯が示唆を与えていることになっています。「人生に意味などない」という結論だけを取り上げると、なにやら投げやりな響きもあります。この一言だけで結論づけるのではなく、もう少し説明しないと、その真意が歪められてしまうのではないかと危惧します。物語の中では、以下のようにも語られています。

幸福という尺度で計られていた限り、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。だが、今や人の一生は、もっとほかのものによって計られてもいい、ということがわかってからは、かれは、自然勇気が湧くのを覚えた。


そしてさらにフィリップは次のような事に思い至ります。

そして人生の終わりが近づいた時には、意匠の完成を喜ぶ気持、それがあるだけであろう。いわば一つの芸術品だ。そして、その存在を知っているのは、彼一人であり、たとえ彼の死とともに、一瞬にして、失われてしまうものであろうとも、その美しさには、毫も変わりないはずだ。


そして「フィリップは幸福だった。」と悟ります。


人生の意味を問う作品は少なくありません。V・E・フランクルの『〈生きる意味〉を求めて』も、そのような作品の一つでしょう。フランクルは「生きる意味」について考察する中で、次のように語ります。

つまり意味は自分自身で探究し、自分自身で見つけていかなければならないものなのである。だから、たとえすべての普遍的な価値が完全に失われたとしても、ユニークな意味を探求し発見していくことは可能なのだ。簡単に表現すれば、価値は死んでも、意味は長く生き続けるということである。


人生論という類の書籍は、他にも沢山あります。それを全て読みきったとしても、自分自身の答えが見つかるのかという点で、私自身は懐疑的です。自分の求める答えを得るためのキッカケならば、それは『人間の絆』からでも『〈生きる意味〉を求めて』からでも得られると思いますが、それは普遍的な真理というよりも、目が開かれたという境地にあると思います。


2021-07-07

文体と英作文

英作文の基礎的な訓練方法についてWebで調べていたら「文体を作ろう! それなりに英語は読めるのに英作文が極端に苦手なあなたへ」という情報を見つけました。そこでは「「英語ってこういう言い方する/しないよね」という基準」を持っていることを重視しており、次のように書かれています。

読んでもまったく英作文力が身につかない人には、英文法の正誤のほかには、自分の中に、こういった英語的な基準が、まったく無いはずです。

いわば無手勝流で、文法の知識と語彙力と辞書だけを頼りに書いている。

この状況を打破するのが、冒頭で述べた「文体」の獲得です。


「文体」を獲得するために、例文を暗記を薦めています。『表現のための実践ロイヤル英文法』に付属している「英作文のための暗記用例文300」を覚えると良いとありますが、それだけで良い訳ではなく、例文暗記の入り口としては妥当というだけです。入り口ではあるとしても、次のような効果が期待できると主張しています。

この300を経ると、多かれ少なかれ、書いていて「あってるっぽい」「間違ってるっぽい」という判断が、それなりに自分のなかに出てきます(貧しい文体の獲得)。


例文数が少ないので、「貧しい」文体の獲得にしかならないのはやむを得ません。しかし「貧しい」状態から豊かな状態に拡げていくことは比較的容易であるとも主張しています。私としても、これはその通りだろうと予感しています。


英作文能力を向上させるために例文暗記を推奨する意見は少なくありません。そのことにより、例文を暗記しておけば、単語を入れ替えることで無限に英文を作っていけるはずだと理由を述べていることが多いようです。これは英借文の発想に近いので、あながち間違っている訳ではないと思いますが、そんなに単純な話しでもないような気がしています。


「英作文のための暗記用例文300」に限らず、『英作文 基本300選』とか『DUO 3.0』など、例文暗記の素材はなんでも良いのかもしれません。しかも例文を暗記したところで、獲得できるのは「貧しい文体」レベルに過ぎない恐れは高いし、英作文能力が劇的に向上することはない可能性が高いと思います。そうだとしても例文暗記は、やらないより、やった方が望ましいだろうと思います。それは直接的な効果が見込めるからではなく、長期的な効果が見込めるだろうと思うからです。もはや信仰なのかもしれません。


 

2021-07-05

「えん」と「ゆかり」の違い

諺に「縁もゆかりもない」という表現があります。「何の関係もない」という意味ですが、「縁」と「ゆかり」は同様の表現を重ねたものであるという説明がされます。同様の表現だとは思いますが、全く同じ意味なのか、微妙に違う意味を含むのか、いずれなのでしょうか。


手持ちの辞書(明鏡国語辞典 携帯版 初版第3刷 2005年)によると、「縁」は「運命として定まっているめぐりあわせ。えにし。」と、「ゆかり」は「何らかのつながりや関わりのあること。縁故。」との説明があります。


もっと大型の辞書を調べて、用例を確認してみないことには、両者の違いがよくわかりません。「縁」は漢語で、「ゆかり」は和語であるとの説明もありました。そうであれば、漢語と和語で同様の意味の語を並べるという発想は、理解しやすい気がします。

サマセット・モームと日本

サマセット・モームの『人間の絆』を読んでいますが、全体の半分あたりまで読みました。読んでいたら以下のような次のような記述がありました。

前には、あのセント・ジェイムズ公園の美しさが、常に喜びであり、よく彼は、ベンチに坐って、影絵のように、空にひろがる樹々の梢を眺めたものだった。まるで日本の版画のようだった。それからまた、船着場や、川船の浮ぶあの美しいテムズ河の河景色に、それこそ掬みつくせない魔術を感じたこともある。四時に変るロンドンの空は、彼の心一ぱいに、楽しい空想を齎してくれた。


ここで「まるで日本の版画のようだった」とあります。サマセット・モームが「日本の版画」に対して持っていたイメージが何だったのかという事と同時に、当時の読者が持っていたであろう「日本の版画」のイメージが何だったのかという事も気になります。


小説の一表現として「日本の版画」に言及するのは著者であるサマセット・モームの判断ではありますが、読者が何を想像するかという点の社会的な共通認識が存在したのではないかとも思います。ここで言う「日本の版画」というものが、浮世絵とか広重の作品のようなものがヨーロッパで流行していたという事なのか、それとも誰か別の日本人の作品が当時のイギリスで有名だったのか、どうなんでしょうか。


この作品では、これ以外にも日本に言及する場面が出てきます。これから読み進めていくと、他にも日本に言及する場面が出てくるかもしれません。わざわざ「日本」について言及することが重要とも思えません。この作品で重要なのは、むしろ「ペルシャ絨毯」であり、これが人生の意味を見いだすための重要なアイテムになっています。

2021-07-02

ミスタ・カメロン

サマセット・モームの『人間の絆』を読んでいるところです。主人公フィリップは、画家になるのを諦めてパリからイギリスに戻り、今度は医者になろうと学校に入ります。その学校の講師のひとりについて、次のような描写がありました。

後で聞いたが、ミスタ・カメロンは、王立美術院の学生たちにも、講義をしているのだそうである。以前、東京大学の講師をして、長いこと、日本にいたこともある。


人間の絆』という作品が発表されたのは1915年です。これは和暦ならば大正4年になります。この作品は、ドキュメンタリではなく基本的には小説なので、現実に起きたことが語られている訳ではないでしょう。イギリスを含めたヨーロッパを舞台にしていることは明瞭ですが、何時頃なのかは定かではありません。ビクトリア朝末期ではないかという気がするし、小説の中には「1892年の秋以前に登録をすませていた者は、云々」ともありますので、だいたいその頃だとは思います。


カメロン講師が日本に住んだことがあるというのは、明治時代のことでしょう。東京大学の講師をしていたというのも、いわゆる「お雇い外国人」ということだったのかもしれません。日本居住経験にせよ、東大講師の経歴にせよ、いずれにしても本作品は「小説」なので、サマセット・モームがそのように書いたという以上の現実があるわけではありません。もちろん、このように書くにあたり、誰か参考にした人物が存在していた可能性はありますし、その人物が日本と関わりを持っていたのかもしれません。


『人間の絆』を読んでいる途中なので、まだストーリーは分かりませんが、カメロン講師が日本と関わりがあったという描写は、後々のための伏線ではないような気がします。

ミーハー

サマセット・モームの『人間の絆』を読んでいます。図書館で借りた新潮社の「W・サマセット・モーム全集」の第2巻から第4巻に『人間の絆』が収録されており、第3巻(3分冊としては2番目)を読んでいるところです。主人公フィリップは、画家になりたくてパリに行きますが、自らの才能に疑問を感じ、画家を諦めてイギリスに戻り、今度は医者を目指して学校に入ります。


フィリップと医学校の友人ダンスフォードがよく通っていた店で給仕をしていた女性に惹かれていく場面に、次のようなこと描写がありました。

まだ六ペンス本の廉価版文学書が出ない前の頃で、その代りには、そこら三文文士どもが、注文次第に書き飛ばす、ミーチャンハーチャン向きの安小説本が、決って、ドンドン売り出されていた。


今日使われている「ミーハー」という表現の語源は「ミーチャンハーチャン」だと聞いていましたが、本当に使われている場面は初めて目にしました。


ここで「ミー」とか「ハー」が何を意味するのかは諸説あるようです。その一つに、音階の「ドレミファソラシド」に由来するとした説があるそうなのですが、Webで検索した情報(語源由来辞典「ミーハー」)には、「ミーハー」よりは多少高尚な「ソーラー族」という表現が昭和30年頃に誕生したと書いてありました。今日では廃れてしまっており、そんな表現もあったのかと驚くばかりです。