下村湖人の『次郎物語』が青空文庫で公開されています。この作品が執筆されたのは昭和11年~昭和29年です。作品は「第1部」から「第5部」まであり、青空文庫にあるテキストデータで「させていただく」という表現を探してみたところ、「第1部」に以下の例が見つかっただけでした。
「それはさようでございましょうとも。でも、私どもといたしましては、病人をお預けしたうえに、みんなで押しかけて参っているようで、まことに面目がございませんし、やはり行ったり来たりということにさせていただきたいと存じて居ります。」
この後に次のような記述が続く。
実をいうと、本田のお祖母さんは、恭一や俊三に病気をうつされるのが恐かったのである。それを体ていよくごまかそうとして、妙な羽目になったので、病室を出てからも、正木一家の人達に対して、よけいなあいそを言わなければならなかった。そんなわけで、彼女はいよいよ正木の家を辞するまでには、大方小半時もかかった。
21世紀の今日では、なぜか「させていただく」が市民権を得ています。しかしそれに違和感を抱く人も少なからずいます。僕もそのひとりですが、その違和感を言語化できていません。
『次郎物語』でこの表現を目にしたとき、「させていただく」というのは、このように、内心を隠しながら体面を誤魔化そうとしている場合に使われる表現であることに気付きました。もちろん、今日の日本で「させていただく」という表現を用いる人が、「内心を隠しながら体面を誤魔化そう」としている「だけ」とは思いません。しかしそのような意識を(自覚しているか否かは別にして)抱えているように思います。
昨今の何でもかんでも「させていただく」で済ませてしまう風潮には疑問を感じていますし、自分自身ではできるだけ使わないようにしようと思っています。