2019-07-25

『ある明治人の記録』と『武士の娘』

Webで見かけた記事に紹介されていた『ある明治人の記録』を読んでみました。会津藩士の家に生まれた柴五郎が戊辰戦争に巻き込まれ、斗南に移住して底辺を彷徨った末に東京に出てきて陸軍幼年学校に入ります。戊辰戦争で会津が戦った頃から、陸軍幼年学校時代に西南戦争が起こり、その後の竹橋事件の頃までを本人が後年に書き記したものを、石光真人が若干の編集を加えて出版したものです。

会津藩士である柴家は、本書で「父柴佐多蔵は会津藩士、280石の御物頭」とあります。当時の著名な会津藩士というと、家老の西郷頼母が1,700石、同じく家老の家柄の山川大蔵が1,000石ということですから、武家としては中位に属しているのかと思います。柴五郎は陸軍大将にまで上り詰めたということです。戦前までの旧日本陸軍では、陸軍中将は1,200名以上もいるのに、陸軍大将となったのは134名に過ぎなかったそうです。薩長閥が階級を独占していた当時において、会津出身者としては頂点を極めたといえるでしょう。

このような華麗な経歴から逆算すると、人は勝手な想像をたくましくして、幼少の頃から神童の誉れが高かったのだろうとか、陸軍幼年学校に抜擢されて、なるべくしてなったのだろうとか、思いがちですが、本書を読むとそのような印象はまったく無く、むしろ底辺を彷徨った挙句に、運よく道が開けたという感じです。

戊辰戦争で会津藩が敗れ斗南に国替になったとき、柴五郎も親と共に斗南に移り住んだようです。斗南での生活の悲惨さは多く語り伝えられているとおりですが、柴五郎も例外ではなく、極寒の地に放り出された状態で、よくぞ生き残れたものだと思います。

生活が底辺を彷徨うようになると、知らず知らずのうちに精神が荒んでくるものです。当時は「プライド」のような横文字はなかったでしょうし、「自尊心」という言葉もなかったかもしれません。しかし「武士の子たることを忘れしか」と父に叱られたというエピソードが語られる中に、心が崩れていくのを押し留める決意が感じられます。

このようなエピソードに触れたとき、以前に呼んだことがある『武士の娘』を思い出しました。著者の杉本鉞子は越後長岡藩の家老だった家に生まれました。明治6年の生まれなので、既に長岡藩はなく(したがって家老の家でもなく)、戊辰戦争も体験していません。長岡藩は奥羽越列藩同盟の一員として戦い、会津同様に長岡城下が戦場になっています(河井継之助が有名です)。時代は明治なので「四民平等」とされていましたが、「武士の娘」としての教育を受け、その一端が本書で語られています。

柴五郎にしても、杉本鉞子にしても、武家としての誇りを失わずに生きたように思います。しかし失うまいと意地を張っているわけではないように思います。やせ我慢をしているということではないと思います。自然とそうなるのでしょう。その姿を見習いたいものだと思います。

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