名詞に「お」や「御」をつけるのは「丁寧語」に区分されます。これは「敬語」を構成する「尊敬語」、「謙譲語」、「丁寧語」の一つに相当する訳ですが、異論もあります。別に敬意を表しているわけではないから「美化語」と呼ぶべきだと主張しますが、今のところ異説のひとつであって、主流にはなっていないようです。
それはともかく、「お」は和語に、「御」は漢語に付けるのが原則です。ならば外来語の扱いが気になりますが、基本的は「お」も「御」も付けないと考えています(若干の例外はありますが)。
上述したルールは原則なので、例外も勿論ありますが、「お(御)」の有無にも個人差があります。社会一般における許容範囲というものもありますが、特定の世間(業界)における習慣なども考えられ、許容度の異なる集団が接触した場合に違和感や反発が生まれるようです。
よく耳にするのが「なんでも「お」を付けておけば無難」とする考え方です。そう考えている人にとっては、「お紅茶」、「おコーヒー」、「おビール(!)」のように表現するそうなのですが、僕には違和感があります。特に「おビール」とか言われたら「ここはいったいどこなんだ」と思うでしょうが、 「お酒」という表現には違和感がありません。「おビール」と「お酒」で良し悪しが分かれるのは、社会的習慣のなせる業としか言いようがないでしょう。
「お」を付ける語と付けない語の分別は、社会における合意があるようで、微妙なところで一致していないと思われます。だから差異が出てしまうのは仕方のないことで、その違いを愉しむことがコミュニケーションの醍醐味であるのかもしれません。少なくとも、「お」の有無に目くじらを立てて、自分の基準に相手を合わせようと仕向けるのは、多様性を認める社会のあるべき姿ではないと考えます。
さらに考察を進めると、「お」が付くことで意味が変わる場合があります。例えば「受験」という語はどうでしょうか。「お受験」となる場合、「お」を付加したことによる「丁寧語(美化語)」というだけではない含意があります。誰かに対して「受験するのですか?」と尋ねた場合と、「お受験するのですか?」と尋ねた場合は、意味が変わってきます。前者であれば、誰もが経験するような高校受験や大学受験などを想像しますが、後者であれば、(エリートコースを狙っているか否かわかりませんが)私立の小学校受験(もしくは、中学校受験や、場合によっては幼稚園受験など)が言外に意味している筈です。
さらに「勉強が得意ですね」と「お勉強が得意ですね」を比べれば、前者なら誉め言葉として受け取れますが、後者だと(誉め言葉だと主張できる余地を残していますが)あてこすりと判断されてもやむを得ない側面があります。
このように「お」という語は日本の文化や社会現象を表象していると考えてよいだろうと思います。
派生的な話題となりますが、最近たまに耳にするようになった言葉として「お名前様」というものがあります。「名前」を丁寧に表現するために「お」が付いているのに、それだけでは丁寧さが表現できていないと考える人が多くなっている模様です。「なんでも「お」を付けておけば無難」とする発想の延長線上に、「なんでも「様」をつけておけば無難」とする発想が生まれてくるのでしょう。これは現代日本に限った現象ではないだろうと思います。例えば「御御御付け」という言葉があるように、丁寧さを狙って生まれた語彙が、丁寧さとしての感覚を失った際に、さらなる丁寧語が付加されるのは、昔からある現象ということでしょう。
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