それ以来「ヨブ記」を読んでみようと思っていましたが、ようやく読む機会がありました。それほど長い物語ではないので、読むこと自体は難しくありません。しかし「ヨブ記」に限りませんが、聖書の物語は、旧約聖書も新約聖書も、字面の表面的な意味だけでは理解しにくく、その奥にある含意を理解したいところです。そこで教会に行ってみて質問するという方法もあるかもしれませんが、それよりも一般に参照できる文章として読んでみて、それでも理解できなければ(次の方法として)教会の門を叩くことを考えてみようと思います。そこで図書館に行ってみたところ『聖書講義VIII(第1分冊)』(矢内原忠雄、岩波書店、1978年)の中に「ヨブ記研究」などが含まれていたので借りてきて読んでみました。
「ヨブ記」の解釈が、この書籍に書かれている事柄しかないという訳ではないとは思います。しかし納得できる解釈が提示されていると感じました。「2 ヨブ記の主題」には次のように書かれています。
ヨブ記の主題は「人生における苦難の意義」である。ヨブ記の著作された時代のこの問題に関する一般的見解は、神は義人に祝福として人生の幸福を与へ、悪人に刑罰として苦難と災害を与へ給ふ、といふのであつた。更に進んで、人の義とこれに与へられる祝福、罪とこれに課せられる災禍とは、それぞれ量的に比例するといふ機械的な考へが支配的であつた。
ここから三段論法的に次のような解釈がなされると書かれています。
- 神は義人に幸福を与へ、悪人に災禍を与へ給ふ。
- ヨブは大なる災禍を与へられた。
- それ故ヨブは大なる悪人であるに違ひない。
- ヨブは己が罪を告白して、神の赦しを求むべきである。
- さうすれば神はヨブの苦難を解き、彼に幸福をかへして下さるであらう。
このような思考方法は、ヨブ記の時代だけではなく、現代でも同じでしょう。不幸に苦しむのは己の罪によるのだという自己責任論は、今日でも一般に流通しています。しかしヨブは反論します。これを現代風に表現すれば(嫌な表現だとは思いますが)「逆ギレ」していると言われるところでしょう。
ヨブ記では最終的に、ヨブは神に対して己の無知を告白することになります。ここの下りに対して本書では次のように書かれています。
この常識的に見て意外な結末が信仰的に見て意外でないことを知ることこそ、ヨブ記から学ぶ最大の教訓でなければならない。ヨブ自身その教訓をヱホバの御言から学んだが故に、彼はおのれについて後悔し、ヱホバについて満足したのであつた。
これは一体どういうことなのでしょう。世界各地で信仰されている宗教に対して、人々の多くは「義人には幸福を、悪人には災禍を」という素朴とも言える発想で理解しています。だから不幸なのは(だと感じるのは)我が身に罪があるからだと理解しています。しかしながら現実の世界は、悪人(のように見える)なのに幸福で、義人(である筈)なのに災禍にみまわれるのは、良くあります。だから「この世には神はいないのか」とか(心の中で、ですが)叫ぶ人が少なくないのです。
「ヨブ記」はハウツー本ではないので、これを読んで理解すれば直ちにハッピーになれるというようなものではありません。読んで学んだことを自分の人生に生かすには、もっともっと考えなければならないでしょう。その手掛かりの一つを与えてくれる書物には違いないと思います。
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