2019-07-31

「65日間日本一周最長片道切符」(bit、1975年1月号)を読んで

かつて共立出版が発行していた「bit」に「65日間日本一周最長片道切符」(平野照比古、1975年1月号)という記事が掲載されていることを知り、読んでみました。国鉄が日本全国に鉄道網を持っていた時代には、このような最長距離の片道切符を考えるのが話題になっていました。最も有名なのが『最長片道切符の旅』でしょう。

 記事には、最長距離片道ルートを求めるアルゴリズムが開設されていますが、概念レベルが書かれているだけなので、具体的なロジックはわかりません。文末にデータ作成作業をしてくれた人達への謝辞が書かれています。当時は今日のような路線検索サイトがある訳ではありませんから、おそらく時刻表を利用して、必要な情報を拾ってグラフ構造を作ったのでしょう。楽な作業ではないと思いますが、本文中でも「まず、駅の集合をVとする。実際には分岐点や行きどまりの駅だけを考えれば充分であることは明らかであろう。」と書かれているように、旧国鉄の全駅のデータが必要になるわけではなく、グラフ構造を作り上げるために必要な分岐駅や末端駅の名前と区間距離だけで良いわけです(それでも膨大なデータになることは違いないでしょう)。

アルゴリズムの解説では、サブブロック化に重点がおかれています。北は北海道から南は鹿児島までの旧国鉄の路線網をグラフ構造にしたとしても、現実の日本列島を考えれば、全体を一気に計算するよりも、一部分(これをブロックと呼んでいる)を計算して、最後に全体を統合すれば、最終的な計算量が削減されることが期待できます。

例えば、北海道と本州は青函連絡船を使うしかないし、九州と本州は関門トンネルを使うしかないわけです。だから、北海道内や九州内のルートを計算する場合には、それ以外の地域の事を考えなくてよいことになります。

北海道、四国、九州は、上述したようなサブブロックとして計算できますが、本州をどうするかが問題です。サブブロックに分けられそうでもあり、分けるのは困難のようでもあり、なんとかしたいところです。ブロックに分けようとする意図は、全体を闇雲に計算すると計算量が爆発し、その当時の計算機では処理が終わらなくなる恐れがあるからでしょう。当時の計算機よりも、今日のパソコンの方が性能が圧倒的に良いと思うので、もしかすると余計なサブブロックを考えなくても、計算できるかもしれません。

プログラムはFORTRANで組んだようです。その当時なら、このような計算をするならFORTANに決まっているでしょう。この記事には、それ以外(プログラムリストとか、実行時間など)の具体的なことは何も書かれていません。CiNiiで探してみたら、京都大学学術情報リポジトリに「長い片道切符について(計算機によるパズル・ゲームの研究)」というメモが「数理解析研究所講究録(1976), 263:75-76」として見ることができました。手書きなのが時代を反映しているところですが、「使用言語はFORTRANで使用計算機はFACOM 270-20(LOAD/ADD 4.8μs)での時間である」とあります。

面白そうなので、自分でもやってみたくなりました。プログラムはFORTRANでも良いのですが、今ならPythonを使ってみたいところです。グラフ構造を取り扱うためのPythonモジュールがあれば、いろいろと楽ができるでしょう。

ここで行く手に大きな問題があることに注意が必要です。1975年当時の国鉄と、2019年現在のJR各社とでは、事情が大きく変わっているのです。特に次の点が重要です。
  1. 新幹線開業にともない並行在来線がJRから切り離されている。
  2. 鉄道網が衰退(特にJR北海道)しており、グラフ構造で最長片道ルートを計算するというほど路線が残っていない。

2番目の問題は、計算量が少なくてガッカリするという程度の話にすぎませんが、1番目の問題は重大です。北海道新幹線が開通したことにより、JR北海道から切り離された道南いさりび鉄道の扱いが問題になるからです。新幹線が開業したことによりJRから切り離された路線は他にもありますし、長野新幹線の開業により横川と軽井沢の間は在来線が無くなりました。このような事情を考えると、どのような方針を採用するか考えておく必要があります。
  1.  全ての新幹線もルート検討に加える。ただし、路線の距離は、「営業キロ」なのか「実キロ」なのか、混乱しないようにすべきである。
  2. JRから切り離された第三セクター路線を、ルート検討に含めるか、除外するか決めておく。もし新幹線も除外し、第三セクター路線も除外するならば、北海道から本州に抜けるルートが無いということになります。
  3. いっそのこと全ての私鉄もルート検索の対象に含める。しかし「最長片道切符」の本来の意図は、「一枚の切符で最長距離」となることに意義があるため、ちょっとやり過ぎなのかもしれません。

最長片道切符のルート問題は、グラフ理論の応用問題です。ここで日本の鉄道網であるという知識を利用すると、すっきりしたグラフ理論のアルゴリズムというより、個別事情の集合という汎用性の乏しい問題に堕ちてしまいそうではあります。いずれにせよ、面白そうなので、なんとかものにしてみたいと思います。

2019-07-28

2019年7月28日3時31分発生三重県南東沖地震

2019年7月28日3時31分頃に三重県南東沖でM6.5の地震が発生しました。震源の深さは約420kmだそうですから、かなり深いところで起きています。

気象庁が発表した震度分布図を見ると、直観とは異なる状況が見て取れます。

まず第一に、震源が三重県南東沖なのに、愛知県では震度1程度にもかかわらず、宮城県で震度4、福島県や茨城県で震度3が観測されていることです。三重県では震度1の観測すらありません(実際には、微かな揺れを感じた人はいるのかもしれませんが)。震源に近い愛知県が震度1で、東北地方から関東地方の太平洋沿岸で強く揺れているようです。

次に、北海道の釧路町でも震度2を観測しているのに、西日本(中国、四国、九州)では、震度1の観測が全くありません。

地球の内部構造は、同心円状に揺れが伝わっていくわけではないということなのでしょう。三重県沖であれば、西日本全体を覆っているユーラシアプレートの範疇なのにもかかわらず、東日本を覆っている北アメリカプレートのエリアの方が揺れているという現象が起きているのが、興味深いところです。

2019-07-27

「梅雨明け」の基準と実態

気象庁のWebに「令和元年の梅雨入りと梅雨明け(速報値)」というページがあり、「 更新日:令和元年7月25日」では東海、関東甲信、東北南部、東北北部の梅雨は明けていないことになっています。しかし梅雨前線は、とっくの昔に消えていて(素人目には、そう見えます)、数日前から最高気温が30度を超すようになっていますし、既に梅雨は明けているように見えます。四国、中国、近畿は「7月24日ごろ」に梅雨が明けていることになっているので、東海や関東甲信も梅雨明けで良いのではないかおもいますが(素人考えでは)、きっと気象庁の「梅雨明け基準」の何かを満たしていないのでしょう。

気象庁が発表する情報は、さすがに「何となく」というわけにはいかないでしょうから、何らかの基準を踏まえて発表するのでしょう。熱帯低気圧が台風になり、さらに温帯低気圧に変わる場合や、台風の大きさや強さを表現する場合は、何らかの尺度に従って発表されます。それは現実を表していると言って良いだろうと思います。これに対して、気象庁が発表する「桜の開花日」などは、地元の桜を全て見て廻るわけにはいかないでしょうから、サンプルとして指定された「特定の桜」が開花したかどうかに過ぎないはずです。代表として選ばれた桜の開花が、その地域を代表すると考えて差し支えないように選ばれているはずですが、本当に代表しているのか評価はしていない(しようがない)だろうと思います。

話を梅雨明けに戻すと、Webを検索すれば「梅雨明けの基準」と思われるものが見つかります。しかし気象庁の判断を類推しているに過ぎないので、本当に間違いない情報なのかという確実性はなさそうです。

今年の梅雨明けは何時になるのでしょう。いつ発表されるのでしょう。もしかすると「既に梅雨は明けていました」という発表になるのでしょうか。

2019-07-26

地域の祭りと部署の宴会

Webの掲示板を見ていたら、地域外の者が地域の祭りに参加するのは非常識なのかという問いかけがありました。それに対して、そんなことはないという意見もあれば、駄目に決まっているという意見もありました。個人的には、参加者を制限する「祭り」って一体なんだろうと思いますので、地域内外を問わずに自由に参加して構わないと考えます。しかし参加しようとしたところ、地域外の者であることを理由に拒否されたという経験がある事例も少なくないようです。

この問題は、「祭り」という言葉が表している「状態」に対して、個々人の受け止め方に差異があるのが原因のひとつではないかと思います。「祭り」という言葉から連想するのは、全国的にも有名な京都の祇園祭、大阪の天神祭り、浅草の三社祭など各地にあります。これらは、当初は地域の中で小ぢんまりとして始まったのでしょうが、現在では全国的な観光行事となっているので、参加者を限定することはないでしょう。これほど大規模でなくても、祭りというのは全て地域の人達の営みから生まれており、人々の一体感を盛り上げるために来るもの拒まずとして運営されるものですから、参加者を制約するのはありえないと思います。

ここで注意しておきたいのは、「祭り」という言葉が、上述したような状況を必ずしも表現した言葉にはなっていない事例もあるという事実です。例えば、ファミレスなどの季節イベントの名前として、「春のご卒業・新入学おめでとう祭り」のように「祭り」という文字を入れてくることがあります(これは例のひとつであり、現実の何かとは関係ありません)。これは常識として「祭り」といっても、上述した「祭り」とは違うと、普通は理解しています。それは問題ではないのですが、「祭り」という言葉が、「祭り」とは違う派生した状況を表現していることは、問題を生む原因となり得るでしょう。

話が飛躍するかもしれませんが、会社が部署ごとや全社規模でおこなう「宴会」について考えてみてはどうでしょうか。新年会でも忘年会でも、送別会でも歓迎会でも構いません。全社規模で行われる「宴会」なら、社員誰でも参加できるでしょうが、部署ごとに行われる「宴会」なら、他部署の「宴会」なら、参加しようとすると断られる可能性は否定できません。このような事は当然だと思えるし、その理由も納得できるでしょう。

「祭り」という言葉が(伝統的な)祭りを意味せず、ファミレス的な「祭り」や、宴会的な「祭り」までも意味している可能性が、問題を引き起こしている気がします。「祭り」ではないものを「祭り」と呼ぶのも問題ですが、ならば「私たちが言う「祭り」とは、このようなものです」と定義すれば良いのかというと、それは違うだろうと思います。

意味の広い語彙を使うなら、その意味で表現される範囲を踏まえた行動をせざるを得ないでしょう。それを避けたいのであれば、意味の限定された語彙を選択すべきなのではないかと思います。

2019-07-25

鉄道の「駅」の由来

NHKが放送している「ネーミングバラエティー日本人のおなまえっ!」で、2019年7月18日放送では「鉄道のおなまえ」でした。その中の話題のひとつとして、鉄道の「駅」というのは古代から続く「駅制」の「駅」から採用されたと紹介していました。

古代駅制というのは律令時代の話だと思っていたのに、それが明治時代になってステーションの訳語として「駅」を採用する根拠になったことに驚きました。古代の制度が明治直前まで残っていたのだろうかと思います。

そういう疑問を感じていたところで、偶然『ある明治人の記録』を読んでいたところ、興味深い記述を見つけました。柴五郎が青森から東京に出るため、地租改正調査のために東北巡回中の大蔵省役人の首席である長岡重弘の供を願いでて許されました。その件に次のような記述があります。
 六月初旬なり。父上より賜りし竹行李を背負い、草鞋履き山高帽を耳までかぶりて出発す。長岡氏は牛輿に乗り、他は徒歩なり。長岡氏は心優しき人にて、幼少の余をいたわり、同氏の輿に同乗させ、あるいは駅馬に乗せなどして、実際に歩行せるは一日のうち四、五里なり。
ここに「駅馬」という語が現れます。これが番組で紹介された古代駅制のことなのでしょうか。

東京に出てきた柴五郎は、鉄道開通にも立ち会っています。
 九月十二日、東京―横浜間に最初の鉄道開通す。新橋停車場に造られた桟上に登りて参観す。天皇陛下、柿色の御装束を召され、同じく束帯の百官を従え、横浜より帰着の汽車より降り立ち給う。外国公使もまた列席し、荘厳華麗な式典なり。式後御浜御殿苑内開放されてさまざまなる余興あり。紅白の餅を撒き、余もこれを拾いたるを記憶す。

同じような事が『維新前夜』(野村兼太郎、昭和16年4月30日発行)の「鉄道開業式入場券」にも書かれています。しかしそれは『日本鉄道史』からの孫引きです。『日本鉄道史』というのは大正10年に鉄道省が発行したものだと思います。これは国立国会図書館のデジタルコレクションから見ることができます。

『ある明治人の記録』と『武士の娘』

Webで見かけた記事に紹介されていた『ある明治人の記録』を読んでみました。会津藩士の家に生まれた柴五郎が戊辰戦争に巻き込まれ、斗南に移住して底辺を彷徨った末に東京に出てきて陸軍幼年学校に入ります。戊辰戦争で会津が戦った頃から、陸軍幼年学校時代に西南戦争が起こり、その後の竹橋事件の頃までを本人が後年に書き記したものを、石光真人が若干の編集を加えて出版したものです。

会津藩士である柴家は、本書で「父柴佐多蔵は会津藩士、280石の御物頭」とあります。当時の著名な会津藩士というと、家老の西郷頼母が1,700石、同じく家老の家柄の山川大蔵が1,000石ということですから、武家としては中位に属しているのかと思います。柴五郎は陸軍大将にまで上り詰めたということです。戦前までの旧日本陸軍では、陸軍中将は1,200名以上もいるのに、陸軍大将となったのは134名に過ぎなかったそうです。薩長閥が階級を独占していた当時において、会津出身者としては頂点を極めたといえるでしょう。

このような華麗な経歴から逆算すると、人は勝手な想像をたくましくして、幼少の頃から神童の誉れが高かったのだろうとか、陸軍幼年学校に抜擢されて、なるべくしてなったのだろうとか、思いがちですが、本書を読むとそのような印象はまったく無く、むしろ底辺を彷徨った挙句に、運よく道が開けたという感じです。

戊辰戦争で会津藩が敗れ斗南に国替になったとき、柴五郎も親と共に斗南に移り住んだようです。斗南での生活の悲惨さは多く語り伝えられているとおりですが、柴五郎も例外ではなく、極寒の地に放り出された状態で、よくぞ生き残れたものだと思います。

生活が底辺を彷徨うようになると、知らず知らずのうちに精神が荒んでくるものです。当時は「プライド」のような横文字はなかったでしょうし、「自尊心」という言葉もなかったかもしれません。しかし「武士の子たることを忘れしか」と父に叱られたというエピソードが語られる中に、心が崩れていくのを押し留める決意が感じられます。

このようなエピソードに触れたとき、以前に呼んだことがある『武士の娘』を思い出しました。著者の杉本鉞子は越後長岡藩の家老だった家に生まれました。明治6年の生まれなので、既に長岡藩はなく(したがって家老の家でもなく)、戊辰戦争も体験していません。長岡藩は奥羽越列藩同盟の一員として戦い、会津同様に長岡城下が戦場になっています(河井継之助が有名です)。時代は明治なので「四民平等」とされていましたが、「武士の娘」としての教育を受け、その一端が本書で語られています。

柴五郎にしても、杉本鉞子にしても、武家としての誇りを失わずに生きたように思います。しかし失うまいと意地を張っているわけではないように思います。やせ我慢をしているということではないと思います。自然とそうなるのでしょう。その姿を見習いたいものだと思います。

2019-07-20

投票と宝くじ

今年は4月に統一地方選があり、7月には参院選もあり、選挙が多い年になりました。以前から言われていることですが、投票率が下がっているようです。投票することは選挙権の行使ですから、投票しないのは権利を放棄していることになります。権利を行使しないのは残念なことだと思いますが、投票を強制させるような施策を講じるのも違うだろうと思います。

投票しない理由に、「投票しても何も変わらないから」というものがあると聞きます(他にも投票しない理由はあると思いますが)。この理由の真意をもっと分析しないことには軽々しく言えないとは思いますが、ようするに「自分の投票した候補者が当選したら「あたり」で、投票して良かったと感じるが、落選したら「はずれ」で、投票なんかして(時間の)無駄だったと思う」ということなのでしょうか。

こう考えているとすると、投票するのは勇気がいるでしょう。何故なら、誰が当選するか分からないと投票できないからです(勝ち馬に乗りたいということでしょう)。一番圧倒的な候補者に投票しておけば無難なのでしょうが、そういう候補者なら「自分が投票しなくても当選するだろう」と勝手に思い込み、結局投票しないかもしれません。

もしかすると、投票するという行為を、宝くじを買うという行為のように考えているのだろうかと思います。「あたる(当選する)なら、宝くじを買いたい(投票してもよい)」が、「あたるかどうか分からないなら、無駄金を使いたくない(時間を無駄にしたくない)」と、博打を打つ感覚なのでしょうか。

投票というのは、結果も大切なのは当然ですが、支持する(しても良いかなと思える)候補者を選ぶという行為に過ぎません。それだけのことです。それをすることが現代社会にコミットすることになりますから、投票しなければ、その人物は存在しているのに「存在していないとして扱われる」という奇妙な状態を選択していることになるでしょう(意識していないかもしれませんが)。

投票(選挙権の行使)は、自分の考えだけでおこなえば良いことで、他者の意向を気にする必要はないはずです。「自分は政治をよくわかっていないから」とか、「皆さんはどうするんですか」とか、こういうことを考えているなら、考える方向がおかしいと思います。日本人は笑い話のネタにされるくらい同調性を気にする国民なのかもしれませんが、自分の投票する候補者くらい他者の意向を気にせず選べば良いのにと思います。