2024-11-20

餃子の無人店舗が少なくなっている気がする

数年前には雨後の筍のように増えていた餃子の無人店舗が減少している気がします。完全に閉店して設備が撤去されたところもありますし、閉店はしていないものの維持されていないように見える店舗もあります。もちろん閉店せずに、従前どおりに営業を続けている店舗だってあります。

 

Webには「「無人餃子」閉店ラッシュの中、なぜスーパーの冷凍餃子は“復権”できたのか」という記事がありました。個人では近所様子を確認する以上のことはできないので、このような記事が出るという事は、薄々感じていた個人的な感覚が裏付けられた気がします。

2024-11-18

Webブラウザに内蔵されたPDF閲覧機能の不具合

WebブラウザにはPDF表示機能が内蔵されていますが、PDFによっては正常に表示されないことがあります。

 

メインで使用しているのはFirefoxで、現在のバージョンは132.0.2です。数年前に、FirefoxだとPDFが正常に表示されないことに気づきました。そのPDFをAcrobatとか、ChromeやEdgeで表示させると問題ありませんでした。少なくともPDF側の問題ではなさそうです。となると、Firefox側の不具合ではないかと思いました。そのうちに修正させるだろうと思ったのですが、今になっても解決していません。


Firefoxをメインで使っているので、PDFもFirefoxで閲覧したいところなのですが、不具合があるなら仕方ありません。そこでPDFを閲覧するときだけはEdgeを使うことにしました。それで問題は解決したのですが、つい最近になってEdgeでもFirefoxと同様の不具合が生じるようになってしまいました。今問題になっているEdgeのバージョンは、131.0.2903.51です。数か月前までは問題なかったので、最近の更新が原因ではないかと想像します。もしかすると、そのうち修正されるのかもしれません。


Firefoxがダメで、Edgeもダメになったので、PDFを閲覧するにはChromeを使うことになりました。現在使っているChromeのバージョンは、131.0.6778.70です。今のところPDFは正常に閲覧できています。


そもそもFirefoxで何故閲覧できないのか原因がわからないのですが、数年経っても修正されていないということは、Firefox開発側では不具合と考えていないのかもしれません。また私以外でFirefoxをPDF閲覧に使用している人(が居るならば)は、困っていないのでしょうか。

2024-11-14

氏名≠姓名≠名前

ちくま新書から出版されている『氏名の誕生』(尾脇秀和)という本を近所の図書館で見かけてので、借りて読んでみました。私たちが普段から「名前」とか「氏名」とか「姓名」とか、別段区別することなく使用している言葉が、歴史的な変遷を経ていることが、本書では詳しく描かれています。これまでは理解が曖昧でしたが、よく分かった気がします。


テレビなどの時代劇を視ていると「大岡越前守」のように人名を表しますが、学問の世界では「越前守」とは「名前」だと考えるそうです。この段階で「?」なのです。つまり現代において「石破総理大臣」と表現しても「総理大臣」というのは「名前」ではないのです。江戸時代は「越前守」が名前なのか?「忠相」が名前ではないのか?と思うのです。

 

このような疑問を解消してくれるのが本書でした。江戸末期の事情が明治維新で如何に変化し、今日に繋がる「氏名」として「誕生」したのかについて、詳しく語られます。

 

図書館で借りて、読み終わったので返却しますが、手元に置いておきたいと思うので、購入しておこうかと考えています。

2024-11-11

タナ・フレンチ『捜索者』を読了

映画「室井慎次 敗れざる者」のパンフレットの中で、亀山プロデューサのコメントで次のようなことが書かれていました。

そこで君塚さんにタナ・フレンチのミステリー小説「探索者」の話をしたんです。警察を辞めた男が山の中の小さな村に移住して廃屋を修繕しつつ暮らす話。あの小説がとても良かったので、あんな感じはどうだろうと君塚さんと話し合ったのが今の形の原形です。

 

この小説に興味を覚えたので近所の書店を探してみたら置いていたので買ってみました。ハヤカワ文庫ですが、700ページ弱もあるし、1,500円以上もするので文庫とはいえ安くはありませんでした。普段は小説をあまり読まないし、ストーリーに馴染めるか確信がなかったので、若干躊躇するところはありました。


読みはじめてみると、物語の波にうまく乗れた気がしました。主人公の感情に共感できるところもできないところもあり、登場人物に感情移入できたわけではありませんが、次はどうなるんだろうという興味が読み進めるエネルギーになっていました。読み終えて、ハッピーエンドではありませんが、心が重く沈んだ気持ちとなる訳ではなく、心地よい読後感となりました。

 

「訳者あとがき」によれば、『初秋』(ロバート・B・パーカー著)という作品があるようです。この本にも興味を持ったので、探して読んでみようかと思います。

2024-11-05

世界史≠Σ各国史

図書館で『東大連続講義 歴史学の思考法』という本を見かけたので、読んでみました。何か特定の歴史的事項について書かれている訳ではなく(例示のために具体例は出てきますが)、 歴史学の「思考方法」を提示するのが目的のようです。本書の「はじめに」で以下のように書かれていますが、その通りだと感じました。

だから本書は、いつ読みはじめても遅いということはないし、一度きりでなく、二度三度とくり返しひもといていただけるだけの不変的価値があると確信している。


第4章の「人びとの「まとまり」をとらえなおす―歴史の中の国家と地域」では、以下のような問いかけが投げかけられています。

 人の「まとまり」の最大単位が、世界である。では、その世界の歴史は、どうやってとらえられるだろうか。

 

日本の学校教育では、日本史と世界史という枠組みになっていますし、その世界史というのが世界各国における自国の歴史を集めたものになっているようです。このような理解を本論では「各国史的理解」と呼んでいます。つまり「一国史」を集めると「地域史」になり、「地域史」を集めると「世界史」になるという理解のことです。しかし本論で「各国史的理解の問題点」で書かれているように、多くの限界や問題が潜んでいます。

 

考えてみると、これは世界史だけではなく、日本史にも言えることだと思います。専門的と言えるかもしれませんが、行政組織がつくる「自治体史」と呼ばれる書籍があります。都道府県だったり市町村だったりしますが、発行時点における行政区域内の歴史を語るのですが、現在の行政区域に合わせて過去の歴史がすすんでいく訳ではありません。「市町村史」を集めると「都道府県史」になり、「都道府県史」を集めると「日本史」になる訳ではありません。


これを数式で表すと、次のようになるのではないかと思いました。

世界史≠Σ各国史

日本史≠Σ自治体史


2024-11-03

復活したブラタモリ

2024年3月に突然のように終わってしまった「ブラタモリ」が、2024年11月に復活しました。これはレギュラー番組ではないので、次回の放映があるのか否か不明です。さらにテーマソングやナレーションも変わったので、これまで慣れ親しんだブラタモリとは違い、違和感を覚える人もいるようです。いっそのことタイトルも替えてしまってもよかったのではないでしょうか。「シン・ブラタモリ」とか、「ブラタモリ シーズン2」とか、いっそのこと「帰ってきたブラタモリ」ではどうでしょうか。


レギュラー番組では、テーマソングは井上陽水の「女神」でしたが、今回は小沢健二の「ぼくらが旅に出る理由」に変わりました。ナレーターは「草彅剛」から「あいみょん」に変わりました。同行するNHKのアナウンサーは、レギュラー番組でも定期的に交替していましたので、今回新人に変わりましたが違和感はありませんでした。

 

レギュラー番組終了後のブラタモリは、不定期番組なので、次が何時なのか全く分かりません。今年度中に次があるのか、一年後なのか、何も決まっていないだろうと思います。そうであったとしても、今回同様、二夜連続とか三夜連続のように、集中して放映されるだろうと思います。

 

もしかすると、次が何時になるかわからないブラタモリのために、NHKとしても同行するアナウンサーを固定的に指定しておくことは出来ないかもしれません。レギュラー番組であれば、毎週のように日本各地に同行することになるので、特定のアナウンサーを指名しておく必要がありますが、不定期番組(しかも次が何時なのかわからない)となると、毎回「(ほぼ)はじめまして」か「お久しぶりです」状態になってしまうでしょう。不定期番組である「ブラタモリ」が放映されるたびに、毎回異なるアナウンサーが登場することになるかもしれません。もっと想像をたくましくするなら、ナレーターも毎回変えても構わないのではないでしょうか。さらにはオープニングテーマを毎回変えても構わない気がします。

 

「ブラタモリ」が「ブラタモリ」である所以は、タモリが日本各地でブラブラと散歩するところにあります。オープニングテーマであったり、ナレーターであったり、レギュラー番組で馴染んだものはありますが、それはブラタモリのコアな部分ではないと思います。しかし「ブラタモリ」の主役が他の芸能人に変わってしまったら、それは「ブラタモリ」ではないでしょう。


不定期ブラタモリの次回作品がいつになるのか分かりませんが、楽しみにして待ちたいと思います。

2024-11-02

「ググる」から「ジェミる」へ

検索エンジンとしてGoogleが搭乗したのは、2000年前後のことです。当時は様々な検索エンジンが群雄割拠していましたが、次第にGoogleの独り勝ちとなってきました。20世紀には、調べ物をする際には、図書館で書籍を探したりするのが一般的でした。しかし21世紀には、Googleのような検索エンジンを使うのが当たり前(良い事かと言えば、必ずしもそうとも言い切れませんが)となっています。そのあげくには「Googleで検索すること」を「ググる」と呼ぶようにさえなっています。

 

ここ数年は、ChatGPTのような「生成AI」と呼ばれる技術が大流行しています。このような新技術が登場すると、その新規性を理解するのは容易とは言えません。まず最初は、過去の技術の延長線上で理解しようとします。具体的には、「ググる」ように利用しようとするのです。

 

ChatGPTを「より新しくなった検索エンジン」と理解するのは、全く間違っているとまでは言えませんが、それでは生成AIの能力を引き出せません。しかも生成AIにはハルシネーションと呼ばれる「もっともらしい嘘」をつく特徴があるので、Google検索のつもりでChatGPTを使うと、「この嘘つきめッ」と怒り心頭となるでしょう。

 

要するに生成AIは「より進化した検索エンジンではない」と思うべきなのです。生成AIは生成AIであって、それ以外ではないのです。生成AIの特徴を生かすにはどうすれば良いのかは、個々人が見出していくしかないのではないかと思います。

 

新しい技術が登場すると、「それは一体何者なのか?」という混乱があります。過去に「オブジェクト指向プログラミング」が一般化しようとした頃、具体的にはC++が一般化してきた1990年前後を思い出すと、「オブジェクト指向でプログラミングするとは、具体的に何をすれば良いのか」ということを問う人たちが少なからず存在しました。オブジェクト指向プログラミングにすぐに馴染む人もいましたが、いつまでも腑に落ちない人も少なくありませんでした。

 

また別の事例として、MS-DOSのような単純なシングルタスクOSから、Windows 95/NTのような本格的なマルチタスクOSに移行しようとした際にも、それほど表に現れなかったかもしれませんが、その趨勢に拒否感を覚えた人が存在しました。彼らは「個人の作業というものは、他人はいざしらず、自分としてはシングルタスクで十分である。よってマルチタスクOSのような複雑なものは、自分には必要ない」と主張していました。それが本心なのか否かは、今となっては不明ですが、少なくとも「本格的なマルチタスクOS」が動作するマシンは、当時としては多くのリソースを必要としたので、高価なマシンが必要となるので、そのような金銭的な負担を負えないという意識が隠れていたのかもしれません。


生成AIは、ChatGPTだけではなく、GoogleにはGeminiがあります。他にも様々なものがあり、Google検索のようなデファクトスタンダードとして何が現れるのかは、わかりません。仮にGeminiが主導権を握ったとして、「Geminiを利用すること」を「ジェミる」と表現する時代が、もうすぐ来るのでしょうか。