インターネットが普及して世界は狭くなったとも考えられますが、まだまだ地球は広いとも言えるでしょう。歴史的に考えて移動するのに人力に頼るしかなかった時代から考えれば、日本から米国でも欧州でも翌日には到着してしまうことを思えば、地球は狭くなったと言えるかもしれません。しかしながら日々の生活で意識している範囲は、決して地球規模などではなく(ニュースやWebで世界中の情報を知ることができるとしても)、半径数キロメートル以下でしかないでしょう。
そのような社会に生きているとしても、巷には「グローバルな」人物と称される人(もしくは自認している人)が居ます。
さて「グローバルな」人物とは、いったいどのような人物でしょうか。どのようにイメージされているでしょうか。通俗的は、英語が話せて、一年に何度も海外に行っているような人ということになるかもしれません。このような行動は、確かに「グローバル」です。しかし、それだけなのでしょうか。
ここで「グローバルな」人物であることを自認している某が、「自分はグローバルに生きているから、どこでも暮らしていける」と語ったとしましょう。これはどういう意味でしょうか。その真意は本人にしかわかりませんが、その言葉を聞いた人が受け止める事は誰にでもできることです。
「どこででも暮らしていける」とは、具体性がありません。しかし具体的に言えば、いったい何処のことなのでしょうか。傍観者が期待するのは、本当に世界中の何処でもよいということではないでしょうか。なにしろ彼は「グローバルに生きている」人なのですから。日本であれば、都会(東京、しかも都心限定)じゃなきゃ嫌だということは無く、日本中のあらゆる場所(田舎でも構わない)ということを期待するところです。
「グローバルに生きている」人の中には、都会じゃなきゃ嫌だという人もいないわけではないようです。「どこでも暮らしていける」というのは、「嫌になったら、こんな土地は何時でも捨てられる。だって自分はグローバルに生きているんだから」という意味だったりする場合もあるようです。
今日の日本は衰退しつつあるという認識をもつ人びとが存在しているような話を聞いたことがあります。彼等にとっては、日本に見切りを付けて、海外に移り住むことを選択しているらしいです。彼らに言わせれば「だって自分はグローバルな人物だから」ということなのでしょう。どこにだって住むことができるというのが「グローバルな人物」ということなのでしょう。
どこで暮らしていても、不満を覚えることは必ずあります。その時に、その土地を捨てて別な土地に移るのは、考えてみれば簡単な話です。現代日本に生きる私達は、過去の時代のように土地に縛り付けられている訳ではありませんから、移動の自由があります。これは素晴らしいことです。
しかし過ぎたるは猶及ばざるが如しと言うように、嫌になったら移ればよいというのは、本当にそれで良いのかと思わざるを得ません。
ここで思いだすのが、Think Global, Act Localという言葉です。地に根を張った生き方をしていきたいと思います。
0 件のコメント:
コメントを投稿