2019-06-24

「科学出版の彼我の差」を読んで

東京大学出版会の広報紙「UP」の2019年6月号に「科学出版の彼我の差」(塚谷裕一) が掲載されていました。これを読んで、出版における著者と編集担当者との関係について考えてみました。

出版するのが科学啓蒙書だろうが、文学作品だろうが、出版社から発行する場合には、出版社には編集担当者がついているはずだと思っています。しかし編集担当者の役割における著者との関係がどうなっているのかは、実はよくわかりません。理想的にどうあるべきなのかも、現実としてどうなっているのかも、よくわかりません。

最近では著者から電子媒体で原稿をもらうことが殆どなのではないかと思います。昔のように原稿用紙に書かれた原稿を受け取って、読みにくい字を解読しつつ活字に組んで、印刷にこぎつける、というのは、もはや昔話にすぎないのではないかと思います。そういう昔のやり方をしていた時代であれば、編集者の役割は、著者から受け取った原稿を印刷し製本できるように「変換」する作業担当者だと考えてもいいかもしれません。編集担当者の役割が「変換作業員」でしかないならば、電子媒体で原稿が入稿される昨今では、その役割と意義が無くなりつつあると、自他とも思っていてもおかしくないかもしれません。

これに対して、上述した文章でも次のように表現しているような行為が行われていれば、編集担当者の役割は、原稿用紙の時代だろうが、電子入稿されようが、変わりようがないはずです。
 いずれも編集者、あるいはエージェントが内容を精査し、相当突っ込んだレベルで著者にだめ出しをして、磨きに磨き上げた本である。場合によっては、一から書き直しということも少なくない。逆に言えば、著者と編集者が二人三脚で良いものを目指すという姿勢が明確である。編集者は文字通り、編集という仕事をきちんとやり遂げているのだ。彼らには、本というものは、筆者自身が持つ素材と筆力に、編集者が持つプロのノウハウが組み合わさって、初めて完成する製品だ、という意識がある。

ところが日本ではこうなっていないと論じ、次のように書かれています。
作家と編集者の間の関係が対等ではなく、編集者側はありがたく作品をいただくのみ、という強い上下関係があると、こういうことが起きかねない。この伝統が、科学啓蒙書の出版の世界にも持ち込まれてしまったのではないだろうか。

著者側の意識として、(自分が書いた)原稿に対して編集者(ごとき)が口を出すなどとは何様のつもりであるか、という側面があるのかもしれません。著者と編集者は上下関係ではなく、対等であるはず(べき)ですが、見かけ上において編集者は著者に対して「先生」とか「玉稿」いう呼び方をしますので、勘違いする著者が出現してもおかしくありません。

「お客様は神様です」という言葉が独り歩きをしている現象とも類似性を感じます。そもそも客商売をしている側の心の持ちようと考えられていた言葉だったはずなのに、客の側が自分を「神様」と見なしてクレームをつけるという使い方をしてしまうような状況もあるやに聞き及びます。

話を戻すと、著者と編集者は対等な関係です。しかしそこには編集者にプロ意識を持っていることが要求されるでしょう。弱気な編集者であれば、上下関係に逃げた方が、ある意味で楽なのです。プロ意識を持っているからと言って、別に偉そうに振舞う必要はないし、そうすべきではないのですが、「プロ意識を持つ」とは口で言うほど簡単でもないとは思います。しかしそういう方向を目指したいものだとは思います。

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