しかし実際のところ、FAQと称される質問がくるのでしょうか。
『Subversion によるバージョン管理』(Ben Collins-Sussman, Brian W. Fitzpatrick, C. Michael Pilato)では「まえがき」で次のように書いています。
だめな「よくある質問集(FAQ)」には実際にユーザが聞きたいことではなく、著者がユーザに聞いて欲しいことが書いてあります。おそらく経験があるでしょう:この文章は、本気半分、冗談半分というところかもしれません。でも組織にしろ個人にしろ、質問や問い合わせを受けて回答するような行為を生業としている場合、「本当に」よくある質問というのが現実にあるはずですが、「おそらく尋ねられる筈だと想定している」よくある質問に置き換えて鸚鵡返しで対応しているんじゃないだろうか、と思うことがあります。
Q: チームの生産性を最大にするにはどうやってGlorbo ソフト社のXYZ を使えばよいのでしょう?
A: 顧客の多くは私たちの特許であるオフィスグループウェアテクノロジを通じた生産性の向上の方法について知りたいと考えています。答えは簡単: まず「ファイル」メニューをクリックし、「生産性向上」メニューを選択しましょう、それから…
このようなFAQ の問題点は、文字通りFAQ でも何でもないというところです。技術サポートに電話をして「どうやったら生産性が最大になるのでしょうか?」などと聞く人は一人もいないのです。
質問者の問いかけは「アナログ」的で想定外の振れ幅で投げかけられると思いますが、回答者が受け止めるのは想定している「FAQ」で量子化した結果の応答でしかないでしょう。両者の認識範囲(常識レベルと言ってもいいです)が近ければ、この方法でも概ね問題にはならないとおもいます。しかしその前提が崩れれば、かみ合わない応答になるでしょう。
究極には異文化交流にはこのような側面があると思います。自分の常識が決して相手にも常識とは限らないのです。かみ合わない応答に時間を費やすのは苦しい体験です。同じ常識が通じる範囲に閉じこもりたくなります。しかし内向きになればなるほど、常識範囲は狭くなっていくでしょう。
無理をしてでも外の世界に出ていかなければならないと感じるところです。
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