2025-08-22

JK30とJY05

ちょっと古いですが「駅ナンバリングはなぜバラバラなのか 鉄道会社の“独自ルール”が招く誤解」という記事を見つけました。今では一般的になっていますが、「駅ナンバリング」をつけるようになった理由はよくわかりません。JR東日本が2016年4月6日付で「首都圏エリアへ「駅ナンバリング」を導入します」という発表をおこなっていますが、ここでは2020年の東京オリンピックを見据えて、訪日外国人の利便性をあげています。

 

その導入目的はさておき、「駅ナンバリング」という名称は、どのようにして決定されたのでしょうか。おそらく、いろいろな議論が、どこかでなされた結果として決まったのだと思います。「駅ナンバリング」というのは、現状を確認すれば、「駅」に番号をつけているというのは、正確ではないでしょう。さきほどのJR東日本の発表資料では、「駅ナンバリング表示駅一覧」がついています。それによると、例えば「上野駅」は、次のようになっています。

  • 京浜東北線・根岸線では「JK30」
  • 山手線では「JY05」
  • 宇都宮線・高崎線では「JU02」
  • 常磐線快速では「JJ01」 

 

このように、同じ駅なのに「路線」ごとに別の番号が割り当てられています。つまり「駅」に番号を割り当てているというよりは、「路線を基準」として「駅」に番号を割り当てていることになります。そうなると「駅ナンバリング」というよりも、「路線別駅ナンバリング」と呼ぶほうが正確なのでしょうけれども、ネーミングとしては、今ひとつかもしれません。 

 

駅ナンバリングの目的は、先の記事では「「何番目の駅か」がひと目で分かるようにする」ことにあるので、厳格に「駅」ひとつずつに番号を振ってしまうと、「何番目の駅かが結局わからない」となる恐れがあります。それでは何のために番号を割り当てたのか疑問です。

 

このように考えてくると、「駅ナンバリング」という名称が、本来の目的とは微妙にずれているネーミングになっているのが問題ではないかという気がしてきました。おそらく本来の目的は、「駅」に番号を割り当てたかったのではなく、不慣れな旅行者などが目的の「駅」まで「残り何駅なのか素早く認識できる」ようにする仕組みづくりだったのでしょう。 

2025-08-15

「Drive on Metz」の基礎調査にNotebookLMを活用

1982年にホビージャパンから出版された『ウォーゲームハンドブック』という書籍がありました。その中には、ゲームの制作過程を示すために「Drive on Metz」というミニゲームが付属していました。その後に原著もゲームも改訂され、今はPDFで入手できるようになったようです。このあたりの経緯は、Web上の記事「発見!! ジェームズ. F・ダニガン『ウォーゲームハンドブック』と『メッツ進撃作戦』(Drive On Metz)」にあるとおりです。

 

1980年代にシミュレーションゲームが流行した頃に、AHのSquad Leaderシリーズを入手し、またSPIの第二次欧州大戦をHJが発売したものを入手しました。しかしシミュレーションゲームは、ゲームとは言いながらも、諸般の事情により、購入しただけで終わってしまっていました。

  1. ゲームの対戦相手が見つからない。
  2. ゲーム時間が長くなるので、遊びにくい。
  3. マップが大きくて、広げる場所がない。
  4. ルールが複雑だと、プレイする前の勉強が辛い。 

 

いろいろと遊ぼうとする上で障害が立ちはだかるのですが、「Drive on Metz」はミニゲームなので、上述した事柄はあまり問題になりません。対戦相手が必要なのは変わりませんが、ソロプレイでも構わないでしょう。

 

次に気になるのは、少なくとも「シミュレーション」ゲームなので、史実との整合性です。ゲームをデザインする中で、シミュレーション性を重視するか、ゲーム性を重視するかは、悩みどころのようです。もしシミュレーション性を重視するとしても、AHのSquad Leaderシリーズの各シナリオだと、予め用意されているボードを組み合わせるしかありませんから、現実の戦闘が行われた地形とは違っています。部隊の編制も、リアリティを高めようとしたら(シミュレーション性を重視したら)、とてもゲームにならないようなカウンターが必要となってしまいそうです。 結局は、AHのSquad Leaderシリーズは、シミュレーションゲームではあっても、ゲーム性を重視しており、WWIIの歩兵部隊の動きがシミュレートできる「気分になる」だけです。

 

それに比べると、「Drive on Metz」は、なにしろ現実に起こった出来事を踏まえています。マップや登場する両軍の部隊も、現実を踏まえています。ゲームした結果が現実と同じになるとは限りませんが、歴史の追体験ができる可能性は高そうです。

 

このゲームの参考情報がウィキペディアに「メスの戦い」としてありますが、ゲームに関係するのは極めて一部です。また米軍が発行した戦史がPDFで入手できますが、それを読み解くのも、骨が折れる作業です。

 

どうしたものかと考えていましたが、GoogleのNotebookLMを使ってみることにしました。ゲーム本体や米軍戦史のPDFを与えておけば、任意の質問に答えてくれます。普通のGoogle検索やGeminiでは、特定の出来事の詳細情報については答えが出ませんが、NotebookLMならば、頑張って返事をしてくれます。

 

まずは、「Drive on Metz」に登場する両軍の部隊が、ゲーム期間中に何処にいたのかをNotebookLMに問い合わせてみました。分かる範囲での回答ではあるのですが、それが史実ということになるでしょう。シミュレーションゲームは、「歴史のif」を明らかにすると言われます。史実を踏まえて、もし部隊が別の動きをしていたらという関心に答えをだしてくれるかもしれません。 

 

 

 

 

 

あ 

2025-08-11

ドライブレコーダーの記録が残っていない(ことがある)

自分の車にドライブレコーダーをつけて10年くらいになります。ドライブレコーダーをつける目的は様々かと思いますが、僕の場合は、仮に事故を起こしたり巻き込まれた場合に状況説明の証拠になるのを期待しました。事故は咄嗟の出来事ですから、ドライブレコーダーが無ければ、記憶に頼るしかなく、客観性があるとは言えません。これが主目的なのですが、副目的として、ドライブレコーダーにGPSが搭載されていて、走行した軌跡を記録できるという点です。地元を走行している分には、あまり関係ありませんが、ちょっと知らないところを走行する場合に道に迷ってしまうことがあります。このような場合に、あとで走行軌跡を確認すれば、どこで道を誤ったのかが一目瞭然です。

 

幸いなことに、ドライブレコーダーをつけて以来、事故は起こしてもいないし巻き込まれてもいないので、ドライブレコーダーの記録を活用する状況になった経験はありません。しかし副目的である走行軌跡を確認するため、家に戻ったら必ずドライブレコーダーのメディアを抜いて、記録を確認するようにしています。すると驚いたことに、ごく稀に、一年に一度あるかないか程度で、ドライブレコーダーに走行記録が残っていないことがあるのです。家を出てから帰宅するまで全て記録されていないのではなく、途中で立ち寄ったりしてエンジンを切ったりしますから、そのどこかの部分が欠けているのです。

 

事故の加害も被害もないので、ドライブレコーダーの記録が欠けていても実害はありません。しかし運悪く事故を起こしてしまった場合、ドライブレコーダーの記録を確認したら、記録が残っていないとなると、大問題です。

 

何事にも完全無欠ということはないでしょうから、ドライブレコーダとてパーフェクトとはいかないかもしれません。しかし万が一のための備えとしてのドライブレコーダーですから、記録がないのは致命的です。仮に走行中の全記録が全く残っていないというのであれば、単純にドライブレコーダーが壊れただけなので、交換することになるでしょう。しかし偶に記録が残らないことがある(それも年に一度あるかないかという頻度)のでは、交換するのも二の足を踏んでしまいます。

 

ドライブレコーダーがあるから、事故を起こしても構わないという事では決してないので、事故を起こさず巻き込まれず、安全運転に心がけようと思います。 

2025-08-10

勉強した事項は、全て理解し覚えて先にすすむ「べき」なのか

放送大学教養学部に所属しています。先月に単位認定試験(放送大学では期末試験のことを、このように呼びます)が終わりました。成績が出るのはまだですが、おそらく単位はとれているでしょう。次学期が始まるまでは、ちょっと気持ちの上で余裕ができます。

 

放送大学に限らず、NHKの語学コースでも何でも、何か勉強する場合、教科書を読み進める上では、(理想的には)読み終えたところまでは全て理解し、用語も覚え、疑問点を全て解消してから、先に進む「べき」なのでしょう。しかし現実には、少なくとも私自身は、理想どおりには進みません。よくわかっていないのに、教科書は先に進んでしまうとか、語学を学んでいるなら、単語も文法も覚えていないけど、テキストはどんどん進んでいってしまうとか、日常茶飯事です。挙句の果てには、理解も覚束ないのに、単位はとれてしまうこともあり、自分自身に不完全燃焼感が残ります。

 

教科書によっては、理解が不十分でも読み進めることを推奨している場合もあります。何度も読み返せば理解できるはずだとの確信があるようです。そうかと思うと、一度説明した事項は、後に残さず、理解してから、先に進むのが当然だと明言している教科書もあります。それがあるべき姿なのかもしれませんが、厳しい要求だとは思います。

 

教科書を一度読んだだけで全て理解できる人も、広い世の中には存在するのかもしれません。しかし凡人は何度も読み返して、ようやく理解できるのです。何度読み返すのかは、数十回の凡人もいれば、数百回の凡人もいて、もしかすると数万回の凡人もいるでしょう。他人と比較して我が身の不甲斐なさを思い知るよりも、自分自身が納得できるまで頑張れば良いのだろうとは思うところです。 

 

何度も読み返す事は必要だとは考えているのですが、それだけでは駄目ではないかとも思います。適切な例えではないかもしれませんが、飛行機が離陸する際に出力を大きくする様子をみていると、滑走路で停止状態の飛行機は、エンジン出力を最大にあげ、一気に離陸しますが、上空では墜落しない程度にエンジン出力を絞っているようです。これは何かを学習する際に、最初頑張れば、いつまでも頑張り続けなくてもすむという比喩のように思えます。

 

最初の段階で頑張らず、ほどほどでよいと暢気に構えていると、いつまでたっても「離陸」できないのではないでしょうか。何か勉強する意欲は大切だとしても、誰しも忙しく、その勉強だけに日々費やしていられるわけでもありません。さきほどの飛行機の例えなら、離陸しようとしている飛行機が、エンジン出力が弱く、いつまでも滑走路を走行し続けているようなものです。例え話なので現実に起こりうる問題ではありませんが、離陸できない飛行機が、滑走路の先端を走り抜けてもなお地上を走り続けているような感じでしょうか。

 

何を学ぶとしても、どんな分野であっても、学べば学ぶほどに奥は深く、どこまで行っても終わりはありません。そうであったとしても、少なくとも「離陸」してしまいさえすれば、人生の全エネルギーを投入しなくても、学び続けていけるでしょう。そこを目指したいと思います。