現在の研究では、平面では円形をしている後円部が埋葬のための墳丘で主丘であり、平面が撥形・長方形・方形・台形などの突出部をひっくるめて前方部と呼ぶ。前方部は、弥生墳丘墓の突出部が変化したもので、もともと死者を祀る祭壇として発生・発達とする説や葬列が後円部に至る墓道であったとする説があり、次第に独特の形態を成したと考えられている。前方後円墳は日本全国43都府県で存在が確認されているそうです。古墳時代には日本中に作られていたようなのですが、ふと考えてみると不思議ではあります。
古墳というのは、形状はともかく、墳墓ですから、その地方で強大な勢力を有していた豪族によって作られたのでしょう。もちろん勢力に応じて、巨大な古墳もあれば、小さめの古墳しか作れなかった場合もあるでしょう。
当時は埋葬するのは土葬の時代ですから、それが勢力を誇示するために巨大化するとなると、円墳になるのが自然です。土を盛り上げただけでは勢力が誇示できないと思ったのなら、高価な副葬品を埋めてみたり、埴輪で周囲を飾ってみたり、いろいろと工夫したのではないかと思います。
もしかすると、その延長線上に円墳から前方後円墳への変化があったのかもしれません。しかし日本全国各地で、ほぼ同時多発的に、(他地域との交流もなく)前方後円墳が発生したと考えるのは不自然ではないでしょうか。
どこかの一地方で、たまたま前方後円墳を作ってみた豪族はいたかもしれません。(当然ながら)テレビもインターネットも無い時代に、その形状が日本各地にどのようにして伝わったのでしょうか。しかも、伝来した(前方後円墳という)形状を、なぜ採用する気になったのでしょうか。
前方後円墳という形状の古墳を作ることに何か圧倒的な利点を有することがなければ、(普通に)円墳でよいのではないかと思うのですが。
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