2019-04-08

「勉強」が「学ぶ」という意味を持つようになった訳

数年前からNHKで「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」という番組を放送しています。あまりにもマニアックな内容なので、ネタが続くのだろうかと思いながら視ていました。当初はタイトルに忠実に「日本人のおなまえ」に関する話題が中心でしたが、さすがにネタに困ってきたのか、「名前」なら何でもオーケーになりつつあります。流石にNHKというべきなのか、視ていて成る程と思うことも多く、いまのところ楽しみにしています(4月の改編で消えませんでしたし)。

新年度最初の4月4日(木) の放送は「学校」にまつわる内容でした。中でも興味を引いたのは、なぜ「学ぶ」という意味で「勉強」を使うのかという謎を解く話題でした(諸説あるのかもしれませんが)。

近世の寺子屋では日常生活に直ちに役立つ事柄が教えられていたのに対して、明治にはじまる学校教育では直ちに役立つとも限らない事柄を教えるようになり、「勉めて強いる」ことが「学ぶ」ことを含意するようになったということでした。

番組では特にふれていませんでしたが、寺子屋と近代教育との相違に関する視点は重要ではないかと思います。新しい年号が発表された今日において、「教育」に「すぐに社会で役立つ事柄」を求める意識は少なくありません。下世話な言い方をすれば、「学ぶ」と「いくら儲かるのか」にしか興味がないのかと言いたくなるほどです。

これは別に日本に限る問題ではなく、世界中で起きている問題です。「degree mill(またはdiploma millとも)」という現象は、英語で表記されていることからも分かるように、英語圏で起きている問題です。

教育に即効性を求める立場の対極にある極端な一例が、いわゆる「象牙の塔」でしょう。どちらの側であろうと、極端な立場は(議論は楽でしょうが)意味がありません。バランスをとるのは、実は難しいことです。そのためには、結局のところ「勉強」が必要なのです。

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