2019/04/29

SWTPC6800

インテル8080伝説』に続き、『モトローラ6800伝説』も読みました。マイコン(当時はパソコンとは呼ばれていませんでした)創成期の歴史がよく分かりました。私がマイコンを知った頃は、この時期は既に過ぎていましたが、書籍や雑誌の端々に関連キーワードが登場していたので何となく用語は耳にしていましたが、実際にどういうものなのかは不明なままでした。そのあたりの事情が良く分かって、すっきりしました。

当時購入し、今でも手元にある『マイクロコンピュータのプログラミング』 (石田晴久編、共立出版)を改めて開いてみたら、169頁にSWTPC6800の写真が掲載されていました。キャプションには「マイクロコンピュータ・キットMP-68とその内部(価格は、完成品で240,000円、キット組立てで159,500円)」とあります。これが『モトローラ6800伝説』の80頁に掲載されている「SWTPCが1975年10月に出稿したSWTPC6800の広告」にあるものと同じではないかと思います。その次のページの記述では、キットのみで$450とありますが、前述の写真では完成品も存在していることになっています。

アメリカで$450が日本で159,500円ということは、単純計算なら$1=約360円ですが、昭和55年頃の円ドル相場は200円~250円くらいでした。SWTPC6800の日本の代理店がどこなのか記されていませんが、輸入して販売する儲けなども考えれば、妥当な価格設定かもしれません。

『マイクロコンピュータのプログラミング』の200頁はAltair 8800Bの写真も掲載されています。そのキャプションには「Altair 8800B(価格421,000円)」とあります。ウィキペディアの「Altair 8800」によると、「Altair8800は更に初期型 (Altair8800)、中期型 (Altair8800a) と後期型 (Altair8800b) が存在し」と書かれています。価格が分かりませんが、SWTPC6800と同程度の円ドル相場と仮定すれば、$1,200相当というところでしょうか。

2019/04/24

集合写真における彼我の習慣の違い

書店で『インテル8080伝説』を見つけたので、買ってみました。マイコン創成期の事情を今日の技術で蘇らせた語りが、とても楽しめました。本筋とは関係ないのですが、「CHAPTER 1 1970年代の事情」の13ページの写真「1969年に撮影したとされるインテルの全従業員106人の集合写真」を見て、日米の習慣の差異を感じました。

最近はそれほどでもないようですが、会社でも学校でも、全員が勢ぞろいして集合写真を撮ることがあります。偉い人(学校なら、先生とか校長先生だし、会社なら、社長など)が最前列の中央に座り、全員が並んで写真に収まっています。多くの場合は、一列で並びきれないので、二列目、三列目(ときには四列目)が、その後ろに並びます。しかし顔が見えないので、椅子や台の上に立っているのが普通です。この「普通」というのは、日本では普通という意味です。日本人が撮影する集合写真は、たいていこのパターンです。

ところが前述したインテルの集合写真は、バラバラに集まった人たちをカメラに収めるため、撮影者は少し高い場所から見下ろすように撮影していますし、集合している人達も、整然と並ぼうとする意思はなさそうに見えます。前方に並んでいるのは、インテルの主要メンバーなんだろうと思いますが、少なくとも日本よりは上下意識に拘らないはずなので、誰がどの順番に並ぶかということには無頓着だと思われます。

似たような写真は他にもあります。『Digital Equipment Corporation (Images of America)』 の101頁にも同様の写真が掲載されています。このページには上下に2枚の集合写真が掲載されており、上には「The VMS V2 team photograph was taken in 1979 at the Tewksbury, Massachusetts, site.」とあり、下は「In another team photograph, the VMS V3 team is shown in 1982 outside of the Spitbrook Road site in Nashua, New Hampshire.」とキャプションがあります。上の写真はカメラが被写体と同じ位置にあるので、後方の人達が何かの台の上にいるようですが、少なくとも日本の集合写真とは違います。下の写真は、まさにカメラが上から見下ろすように撮影している「アメリカらしい集合写真」です。


2019/04/20

ノートルダム大聖堂の火災とケン・フォレットの「大聖堂」

ノートルダム大聖堂が炎に包まれる様子をTVニュースで視て、とても悲しく思いました。貴重な歴史的遺産が損害を受けたことも残念ですが、宗教的な象徴が傷ついたことも残念です。ただし運び出すことが可能な品々は救出できたものも多いそうなので、幸いでした。

この報道を見た時に、かつてNHKで放送されていた「ダークエイジ・ロマン 大聖堂」を思い出しました。原作はKen Follettの「The Pillars of the Earth」です。ちょうど東日本大震災の発生前後にNHK BSで放送されていました。不安な時期でしたが、ドラマでは、崩れても再び再建していこうとする逞しさを感じ、勇気づけられました。

フランスのマクロン大統領はノートルダム大聖堂の5年以内の再建を目指している、と報道されています。予定通りの期限に再建できるのかは分かりません。しかし崩れても再び立ち上がることができることを示すことこそが、未来への希望というものではないでしょうか。

2019/04/18

リクライニング・シートの作法

飛行機、特急電車、高速バスなどの座席はリクライニング・シートになっているのがほとんどだろうと思います。リクライニング機能がある場合、座席を倒すか倒さないか、また倒すのであれば、どのくらいの角度まで倒すのか、さらには倒す前に後部座席の乗客に一言声をかけるのか、などについて、Web上の掲示板で度々紛糾しているのを目にします。

こんなことで議論して紛糾しているのは日本人だけかと思ったら、日本以外でも同様の問題を抱えていることを、Webで公開されているニューズウィーク日本版の記事「航空会社のリクライニング制限は、乗客の敵か味方か」(原題「Airlines Eliminating Reclining Seats」、著者:ダニエル・アベリー、公開日時:2019/4/17-16:30)で知りました。

日本で紛糾する議論を見ていると、「リクライニング・シートを倒す際には後ろの乗客に配慮する(→このため、倒す前にひと声かけたり、倒す角度を控えめとする)」という主張と、「リクライニング機能の行使は権利であり他者から制約を受ける筋合いはない(→このため、倒す前に声をかける必要は無いし、倒す角度は自分の必要な角度で何の問題もない)」という主張が、火花を散らしています。このような論争には辟易する面もありますが、だからと言って「リクライニング機能は使わないのが、乗客のマナーである」という意見が出てきたりすると、それは違うんじゃないかと思います。

上述した記事によると、格安航空会社のなかにはリクライニング機能を無くした座席を採用するところがあるそうです。日本でも2019年に導入される予定があるようで、「ピーチ、レカロのリクライニング済み新シート 19年導入」(2018/4/12-17:45)という記事がありました。飛行機内でリクライニング・シートを倒す際の乗客トラブルは、どうやら海外でも日常的なのでしょう。手っ取り早い解決方法として、リクライニング機能を無くしてしまえば、トラブルは避けられるということなのでしょう。

記事では、「ジョニージェット・ドット・コムを運営する旅行エキスパート、ジョニー・ディスカラ」が次のように語っています。
リクライニングする前に、振り返って後ろに座っている人に合図をするのが作法だ。後ろの人がドリンクを飲んでいたり、ノートパソコンを出したりしていないか、あるいは眠っているかどうかを確認する。飛行機に乗っているときは、誰に対しても心の底から丁寧に振る舞わなければ何が起こるかわからない
ここでいうところの「合図をする」というのが、日本風の表現なら「一声かける」ということだと思っています。それが作法だという彼の主張に賛同します。無言で唐突に座席を倒すのは避けるべきでしょう。しかし、リクライニング機能を利用しようとしている乗客が後ろの乗客に「リクライニング・シートを倒す許しを乞うている」わけではないし、その後ろの乗客も「リクライニング・シートを利用しようとしている目の前の乗客に許しを与えている」わけでもないとは、思います。

2019/04/17

明治初期のパスポート

国立西洋美術館で「林忠正―ジャポニスムを支えたパリの美術商」(2019年2月19日~5月19日)という展覧会が開催されています。その中に明治初期のパスポート(作品番号:12)が展示されており、興味を惹かれました。

配布されているパンフレットの記載によると、林忠正は「1978(明治11)年のパリ万国博覧会を機に通訳として渡仏し」たとのことです。展示されているパスポートは明治11年のものなので、この渡仏のために取得したのでしょう。明治初期のパスポートは、今日の私達が見慣れているものとは、だいぶ違います。そもそも冊子形式ではありませんし、証明写真も貼付されていません。

調べてみたところ、外務省布達第1号(明治11年2月20日)「海外旅券規則」で「従来当省ヨリ発行候海外行免状之儀海外旅券ト改称別紙規則相定候条此旨布達候事」と定められたのが近代パスポートの始まりのようです。林忠正がパリ万博(明治11年5月20日~11月10日)の為に渡仏したのも同年ですから、これに基づきパスポートを得たのでしょう。

写真が無いのに、どのようにして本人を証しするかと言うと、人相書きがパスポートに記されています。顔かたちとか、各パーツの様子が簡潔に書かれていますが、当時としては、こうする以外に方法は無いでしょう。

パスポートに写真が貼付されるようになるのは、大正6年1月20日外務省令第1号で「第2条第2項ノ次ニ左ノ1項ヲ加フ」とあり、「本条ノ願書ニハ最近ノ撮影ニ係ル本人ノ写真2葉(手札形、半身、無台紙)ヲ添付スルヘシ但シ父又ハ母ノ旅券ニ併記スル5歳未満ノ子ニ付テハ此限ニ在ラス」で決まったようです。写真自体は幕末から存在していた筈ですが、万人が利用するようなものではなかったと思います。しかし大正時代くらいになれば、一般に写真が普及し、(今日でいうところの)「証明写真」の理解が広まっていたということなのだろうと思います。

では冊子形式になったのが何時頃かというと、外務省領事局旅券課による「旅券の変遷と最近の動向(海外渡航文書150周年に際して)」(平成28年6月)という資料によると、「大正15(1926)年 冊子型の旅券に改定(1/1開始)」とあります。外務省のWebにある「外交史料 Q&A その他」では「1920年(大正9年)にパリで開催されたパスポートに関する国際会議においてパスポートの形態を国際的に「手帳型」に統一する決議が採択されたことを受け、日本政府もこれに倣いました。」と説明されています。この件の根拠となる外務省令を官報で探してみましたが、見つけられませんでした。

2019/04/10

Radiko.jpガジェットから音が出なくなった

パソコンでラジオを聴くために「Radiko.jpガジェット」も使っています。バージョンは3.1.8(Last Updated:2015/11/9)です。随分旧いですが、これが最新版のようです。ただしAdobe Airの環境が必要なので、Adobe Airの更新は随時おこなっています。

昨日(2019年4月10日)にも、Radiko.jpガジェットを立ち上げたら、Adobe Airの更新をおこなうか尋ねられました。今まで更新しなかったことがないので、当然のように更新しました。バージョン32.0.0.116になったようです。ところが、Adobe Airの更新直前までは聴けていた放送が、更新したら音が出なくなりました。何故?

2019/04/08

微分方程式('17)

放送大学教養学部で4月からは「微分方程式('17)」を受講することにしました。ちょうど1年前には「入門微分積分('16)」を受講したので、その続きです。どちらも主任講師は石崎克也教授です。(放送大学に限らないと思いますが)大学で教えているくらいなので専門知識には長けているのは間違いないと思いますが、「教える」こと自体が上手いとも限りません(自分の専門分野をひたすら話しているだけという場合も少なくありません)。しかも論理の展開が飛ぶので(本人にとっては連続しているのかもしれませんが)、分かっている人が受講しないとわからないのではないかと思ってしまいます。その点では、石崎先生の講義は、わかりやすく伝えようという意思を感じます。

第1回の講義は、導入として基本的な事柄の復習がメインでした。話しを聞けば、概念としては理解できるのですが、実際の式の導出や演習問題が解けるかというと、あまり自信がありません。単位を取得することも重要ですが、微積分を身につけるために、講義を聴くだけではなく、予習復習は勿論のこと、派生的な勉強もしようと思っています。

あまり最初に意気込むと、後々続かないので、注意しようと思いますが、まずは印刷教材にある式などの論理の展開を自分で追ってみることにしました。わからなかったら(というか、ほとんどわからないのですが)、Webで検索すると、ありがたいことに多くの情報(解答を含む)が得られます。いきなり解答を見るのは否定的な意見もあるのは承知していますが、解けない問題を前にして唸っていたところで、(精神論的に)解けるようになるわけではないと考えています。錆びついた能力を回しているうちに、次第に油が回って、スムースに動くようになっていくでしょう。

大学の講義とは言っても、現時点では高校の数学で習うようなレベルとも言えます。そうは言っても難しいものもあり、印刷教材の18頁にある式(1.26)と(1.27)は、難問だと感じました。Webを検索すると、同じように苦しんでいる人がみつかります。
置換積分は理解できますが、「なぜこのように置換すれば解けるのだろう」とは思います。普通に発想したのでは出てこない置換です。このような問題も解けるように頑張ろうと思います。

「勉強」が「学ぶ」という意味を持つようになった訳

数年前からNHKで「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」という番組を放送しています。あまりにもマニアックな内容なので、ネタが続くのだろうかと思いながら視ていました。当初はタイトルに忠実に「日本人のおなまえ」に関する話題が中心でしたが、さすがにネタに困ってきたのか、「名前」なら何でもオーケーになりつつあります。流石にNHKというべきなのか、視ていて成る程と思うことも多く、いまのところ楽しみにしています(4月の改編で消えませんでしたし)。

新年度最初の4月4日(木) の放送は「学校」にまつわる内容でした。中でも興味を引いたのは、なぜ「学ぶ」という意味で「勉強」を使うのかという謎を解く話題でした(諸説あるのかもしれませんが)。

近世の寺子屋では日常生活に直ちに役立つ事柄が教えられていたのに対して、明治にはじまる学校教育では直ちに役立つとも限らない事柄を教えるようになり、「勉めて強いる」ことが「学ぶ」ことを含意するようになったということでした。

番組では特にふれていませんでしたが、寺子屋と近代教育との相違に関する視点は重要ではないかと思います。新しい年号が発表された今日において、「教育」に「すぐに社会で役立つ事柄」を求める意識は少なくありません。下世話な言い方をすれば、「学ぶ」と「いくら儲かるのか」にしか興味がないのかと言いたくなるほどです。

これは別に日本に限る問題ではなく、世界中で起きている問題です。「degree mill(またはdiploma millとも)」という現象は、英語で表記されていることからも分かるように、英語圏で起きている問題です。

教育に即効性を求める立場の対極にある極端な一例が、いわゆる「象牙の塔」でしょう。どちらの側であろうと、極端な立場は(議論は楽でしょうが)意味がありません。バランスをとるのは、実は難しいことです。そのためには、結局のところ「勉強」が必要なのです。

2019/04/07

Please Do Not Throw Sausage Pizza Away

『実践パケット解析 第3版』を読んだら、OSI参照モデルの覚え方の語呂合わせが紹介されていました。OSI参照モデルの各階層は、次のようになっています。
  1. 物理層
  2. データリンク層
  3. ネットワーク層
  4. トランスポート層
  5. セッション層
  6. プレゼンテーション層
  7. アプリケーション層
これらの各層の頭文字が「PDNTSPA」なので、表題のようにして覚えれば良いという事らしいです。

まるで鎌倉幕府成立を「いいくに(1192年)」と覚えるみたいです。

2019/04/05

「反論への反論―問題から目をそむける数々の定説の検証」

ジャレド・ダイアモンド『文明崩壊』の下巻も読み終わりました。「第16章 世界はひとつの干拓地」の「反論への反論―問題から目をそむける数々の定説の検証」で取り上げられていた「反論」は、いろいろな場面で顔を見せる言説です。今後の備忘として控えておこうと思います。
  1. “環境と経済の兼ね合いが肝心”
  2. “科学技術がわたしたちの問題を解決する”
  3. “ひとつの資源を使い果たしたら、同じ需要を満たす別の資源に切り替えればいい”
  4. “世界の食糧問題というものは存在しない。食糧はすでにじゅうぶんにある。われわれはただ、その食糧を必要な場所に届けるための輸送問題を解決すればいい(エネルギーについても同様)”、あるいは“世界の食糧問題は、コメその他の多収穫品種を生み出した「緑の革命」によって解決済みだ。そうでなくても、遺伝子組み換え作物によって解決するだろう”
  5. “個人の寿命、健康、財産―経済学用語で言うとひとり当たり国民総生産―などの常識的な指標で見れば、生活条件は何十年ものあいだ向上し続けている”、あるいは“ちょっと廻りを見渡してみても、芝生はまだ緑で、スーパーマーケットには食品があふれ、蛇口をひねればきれいな水が出てきて、崩壊が忍び寄っている気配などまったくない”
  6. “過去に何度、環境保護論者たちの大げさな破滅の予言がはずれてきたことか。もうそんなものには踊らされない”
  7. “世界の人口の増加率は落ちてきているのだから、人口問題はおのずから解決しつつある。このまま行けば、現在の人口の二倍以下のレベルで落ち着くだろう”
  8. “世界は増えゆく人口を無限に吸収できる。人が多くなればなるほど、多くのものが創り出され、ひいては富が増えるのだから、それは望ましいことだ”
  9. “環境への配慮は、先進国の気楽な金持ちにだけ許される贅沢で、貧苦にあえぐ第三世界の住民にそういうものを押しつけるべきではない”
  10. “環境問題が絶望的な結末を迎えるとしても、それは遠い将来のことで、自分は死んでいるから、真剣に考える気になれない”

2019/04/04

「集団の意思決定を失敗に至らしめる要因」

ジャレド・ダイヤモンド『文明崩壊』の「第14章 社会が破滅的な決断を下すのはなぜか?」では「集団の意思決定を失敗に至らしめる要因」が4つのカテゴリーとして示されています。それは次の4つです。
  1. 実際に問題が生まれる前に、集団が問題を予期することに失敗する可能性。
  2. 問題が生まれたとき、集団がそれを感知することに失敗する可能性。
  3. それを感知したあと、解決を試みることに失敗する可能性。
  4. 解決を試みたとしても、それに成功しない可能性。
同書でも指摘されていますが、失敗と崩壊について考えるのは気が滅入ることです。しかし間違ってしまう要因を分析することが、「正しい決断を導く」ために役立つという同書の主張には同意します。

2019/04/02

dynabook SS SX/15AのNetBSD/i386にOLYMPUS SH-1を接続

NetBSD/i386に入れ換えたdynabook SS SX/15AのUSBでデジカメ(OLYMPUS SH-1)を接続してみました。デバイスが認識され、マウントも出来ました。良かった良かったと思ったのですが、USBを抜いたら、OSが落ちて再起動がかかってしまいました。NetBSDが悪いのか、dynabookの問題なのか分かりませんが、ハードウェア(dynabook)の側の問題ではないかと想像しています。

まずUSBで繋いだら/var/log/messagesに次のようなメッセージが出ました。
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8830812] umass0 at uhub4 port 7 configuration 1 interface 0
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8830812] umass0: OLYMPUS (0x7b4) SH-1 (0x12e), rev 2.00/1.00, addr 2
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8830812] umass0: using SCSI over Bulk-Only
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8830812] scsibus0 at umass0: 2 targets, 1 lun per target
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8830812] sd0 at scsibus0 target 0 lun 0: <OLYMPUS, SH-1, 1.00> disk removable
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8930877] sd0: fabricating a geometry
Apr  2 14:06:11 dbss /netbsd: [ 22503.8930877] sd0: 15264 MB, 15264 cyl, 64 head, 32 sec, 512 bytes/sect x 31260672 sectors
このときにfdiskでは次のように認識されています。
fdisk: Cannot determine the number of heads
Disk: /dev/rsd0d
NetBSD disklabel disk geometry:
cylinders: 15264, heads: 64, sectors/track: 32 (2048 sectors/cylinder)
total sectors: 31260672, bytes/sector: 512

BIOS disk geometry:
cylinders: 1024, heads: 255, sectors/track: 63 (16065 sectors/cylinder)
total sectors: 31260672

Partitions aligned to 2048 sector boundaries, offset 63

Partition table:
0: Primary DOS with 32 bit FAT - LBA (sysid 12)
    start 8192, size 31252480 (15260 MB, Cyls 0/130/3-1945/226/9)
1: <UNUSED>
2: <UNUSED>
3: <UNUSED>
No active partition.
Drive serial number: 0 (0x00000000)
マウント「mount -r -t msdos /dev/sd0e /mnt」してみると、無事にファイルが参照できました。
dbss[1]# ls -lR /mnt/DCIM
total 32
drwxr-xr-x  1 root  wheel  32768 May 21  2016 100OLYMP

/mnt/DCIM/100OLYMP:
total 15072
-rwxr-xr-x  1 root  wheel  3710074 Apr  1 12:09 P4010001.JPG

英語圏では親が子を「氏名を呼んで」叱るらしい

NHKラジオで放送されている「ラジオ英会話」の旧いテキスト(2015年11月26日付)の「English Conversation Literacy」に次のような文章がありました。
 正式名が、“お説教”のために使われることもあります。親が子どもに、“Katie, it's bed time.”と伝えても言うことを聞かないと、“Katherine, it's bed time.”と正式名が登場します。それでも聞かないと、“Katherine Adler, stop listening to Rajio Eikaiwa and go to bed right now!”と、氏名を使って(ここでは敬意を払うのではなく)正式にきつく通達します。
この文章を読んで、解けた疑問があります。

1990年代の映画「天使にラブ・ソングを2」では、高校の教師として赴任してきたシスター・メアリー・クラレンス(ウーピー・ゴールドバーグ)を追い出す相談を、夜の路上で生徒たちが相談しています。その向かいのアパートの窓から母親が娘を呼ぶのですが、「リタ・ワトソン」と呼びかけるのです。口調は静か(決して金切り声というわけではなく)ですが、叱っているのだろうと、理解はできます。しかし(よく考えると)なぜ氏名を呼ぶのだろうと、思わなくはありません。つまり日本にはこのような習慣(叱る際に子供を氏名で呼ぶ)が無いからです。ストーリに大きな意味を持つシーンという訳でもないので、なんとなく見逃してしまうシーンではあります。

英語圏には、言うことを聞かない子供を叱る最終手段として「 氏名を使って(ここでは敬意を払うのではなく)正式にきつく通達」するという習慣があることを知れば、そのシーンをより深く味わえるというものでしょう。

2019/04/01

環境問題に対して“自分”個人がおこなう6つの効果を期待できる方法

ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』は、当初想像していたよりも興味深い内容でした。まだ下巻を読み始めたばかりですが、先に巻末の「参考文献」に目を通したところ、次のような記述がありました。
第16章の冒頭で要約した12の環境問題については、今までに優れた文献が数えきれないほど出版され、政府や各種団体がとるべき行動を示している。それでもなお、多くの人が胸の内で、“自分” 個人がいったい何をすれば事態を変えられるのかと問いかけているのではないだろうか?
そして「少なくとも6つは、効果を期待できる方法がある」と文章は続きます。その6つの方法について、ここで書こうと思っているのではありません。方法が幾つあろうとも、もっとも大切なことが書いてあるのです。
最初に言って おかねばならないのは、個人がひとつ行動を起こしたからといって、いや、3週間同じ行動を続けたからといって、すぐに変化が起きるのを期待するなということだ。もし変化をもたらしたいなら、生涯を通じて、根気よく複数の行動を続けなくてはならない。
実に至言だと思います。何をするのかも大切かもしれませんが、「生涯を通じて」、「複数の行動」を続けていく必要があるでしょう。

“エデンの園”風環境保護主義

ジャレド・ダイアモンドの『文明崩壊』を読んでいます。上巻は読み終わって、下巻に入りました。本文を読む前に、巻末の「訳者あとがき」に目を通すと興味深い記述がありました。
似たような論法で、過去の先住民を“聖なる人々”とあがめ、彼らがみずから環境を破壊したという事実を認めたがらない学者もいる。そういう視野の狭い“人道主義的”態度を、ダイアモンド博士は“エデンの園”風環境保護主義と呼ぶ。その学者たちがなぜそこまで極端な説に走るかというと、反対側の極に、先住民の環境破壊を盾にとって先住民への虐待や放逐を正当化しようとする“後住民”の利益集団がいるからだ。どちらの極論も、正当な科学的研究の成果とは相容れない。
環境問題に限らず、このような立場をとる姿はよく見られます。「“聖なる人々”」には善意しかなく、問題がおきたのは悪意のある他者の仕業でしかないというわけです。もし研究の結果として「“聖なる人々”」が関わっていたことを否定できなくなると、それは悪意のある他者に「強制され」、やむを得ずおこなった出来事でしかないということになるわけです。

正当な科学的研究の成果を「道徳的な価値観」と混同しようとするから、上述したような態度に繋がるのではないかと思っています。両者は分離して考えるべきでしょう。

能力の自己認識と他者評価

自己の能力を、自分がよく分かっているかというと、そういう訳でもありません。では他者の評価が合っているかというと、これまたそういう訳でもありません。その関係は千差万別ですが、類型化できるのではないかと思います。

グラフ化して表現するとしましょう。横軸に自己評価の軸を考えます。原点は、自己認識としての自己能力が「0」(すなわち無能だと自分では思っている)ということで、右にいくほど自己認識としての自己能力が高く、究極的には「∞」(すなわち神?)となります。縦軸には他者評価の軸を考えます。原点は、他者評価として見られている能力が「0」(すなわち無能だと思われている)ということで、上にいくほど他者評価として見られている能力が高く、究極的には「∞」(やはり神?)となります。

このXY平面で「y=x」のグラフが描ければ、自己認識と他者評価が合っているので、ストレスは少ないと思います。しかし現実には、もっと複雑なグラフになるでしょう。例えばボリューム(可変抵抗器) の変化には、「Aカーブ」、「Bカーブ」、「Cカーブ」というものがあります。「y=x」がBカーブです。

もしAカーブと見なされるなら、自己認識としては能力が(そこそこ)あるのに、他者評価としては無能と思われているということになります。

もしCカーブと見なされるなら、自己認識としては無能に近いのに、他者評価が極めて高いということになります。

これらの主張は単純化しすぎているかもしれませんが、現実問題として精確に測定することなどできないと思うので、ざっくりと表現するしかないだろうと思います。できればBカーブでありたいものですが、現実にはAカーブとして扱われている人が多いのではないでしょうか。