2019/03/31

「どっちもどっち」は最後の手段

Web上の掲示板サイトを読んでいると、相談者に対して「どっちもどっちですね」というようなコメントがつくのを目にすることがあります。周囲の誰かとの関係に悩んでいる相談者に対して、どちらかに肩入れせず、「どっちもどっち」とコメントするのは中立的な意見の表明のように見えますが、実はとても安易な意見なのではないかと思います。

Web上の文字だけのコミュニケーションでは、しかも何処の誰なのか知らない人達のことなのですから、書かれている文字の背後の事情を想像してコメントすることになります。文字で書かれていることは「相談者」が考えていることですが、背後の事情を想像しているのは「コメントする人」が考えていることです。知り合いでもなんでもない「相談者」の事情を想像した深浅によりコメントしているわけです。

物事の程度の差はあるでしょうが、世の中の問題は須らく「どっちもどっち」と言ってしまえばそれまでです。しかし「どっちもどっち」として中立を装ってみたところで、問題の解決にも繋がらないでしょう。背後にある事情を類推し、自分自身を騙さずに筋を通して、どちらかの立場に身を置くしかないだろうと考えています。それでも「どっちもどっち」としか言いようのないこともあるかと思いますが、それは最後の最後の判断だろうと思います。

音読の効能

英語を学習するため、いろいろな方法論が出回っています。万人に効果がある方法もあるでしょうし、一部の人にしか効果がみられない方法もあるでしょう。ただし、どんな方法論であったとしても、それだけで英語が完璧になることはないだろうと思います。中学校以来(最近は小学校以来かもしれませんが)学んできたことも、無駄ではないと思います。それらと組み合わせて学習は続くのだろうと思います。

英語(に限らず、外国語は全てそうですが)は、日本語と違いが大きい言語です。
  1. 主語が必須(日本語では省略されることが多い)
  2. 主語の次に動詞が出現(日本語では文末に出現するので、口を濁すことが簡単にできる)
  3. 名詞の形容が後置もある(日本語だと必ず前置される)
このような英文の特徴が頭で理解したとしても、英会話のようなリアルタイムのコミュニケーションに対応できるかというと、それ相応の訓練が必要になると思います。いわば「畳の上の水練」のようなもので、頭でわかったとしても、実際に使えるとは限らないわけです。

英文を黙読するのであれば、「多読」のような方法論もありますが、文を行ったり来たりすることも出来るし、何度も読み返すことだってできますから、英文のリズムを掴んでいなくても何とかなってしまうこともあろうかと思います。これに対して、英文を音読するとすれば、否応なしに英文のリズムを身体に染み込ませることがことが出来るのではないかと思うのです。

何年か前からNHKラジオで「ラジオ英会話」(現在は「遠山顕の英会話楽習」)のスキットを暗唱する練習をしています。放送された週の分は、週末までには暗唱できるように練習しています。しかし次々と新しいスキットを暗唱していくので、旧い分は記憶の彼方に薄れていってしまいます。永遠に記憶できるようにしている訳ではありませんが、それでも良いだろうと思っています。

コピ・ルアク

コピ・ルアク」という珈琲豆があるそうです。世界で最も高価な珈琲豆と言われているそうですが、実際に販売されているのを見たことはありません。

この珈琲豆の生産方法を具体的に書き記すのは憚られますが、噂では耳にしていました。独特の香りを持ち、その希少性と相まって、高額で取引されているそうです。高額とはいえ、貴金属のような装飾品ではなく、いちおう食品ですから、実際に飲用に使われるために購入するのだと思います。由来を聞いたら、飲むのに躊躇するか、勇気がいるかもしれません。

何故、そのような珈琲豆が市場に出回るようになったのか、発端が気になります。世界中にある食品の起源譚は明らかになっていないものが殆どだと思いますが、この珈琲豆を最初に飲用として使おうと思った人の気持ちが知りたい気もします。

日本でも独特の食品として納豆が有名ですが、(誰が最初に口にしたか特定できるわけではありませんが)食べられるものと思ったのは何故なのか理由を訊きたい気がします。

2019/03/30

単線の新幹線?

九州新幹線の長崎ルートは、当初フリーゲージトレインが想定されていましたが、断念したと聞いています。そうなるとフル規格が検討されることになるのかもしれませんが、そう簡単に意見がまとまることはなさそうです。そのような中で「単線案」が出てきたそうで、とても驚きました。技術的には「単線」の新幹線も作ることが出来るのかもしれませんが、違和感があります。

新幹線は、語義的には「新しい」幹線を意味し、幹線の交通量が溢れそうだから「新幹線」を建設して路線容量を増やそうという発想があったはずです。だから当然(考えるまでもなく)複線で建設するものだと思っていました。しかし現実には新幹線を建設しても需要が見込めないという時代になってきています。それでも建設しようとするから、「単線案」というものが出てくるのでしょう。

新幹線が出来ると、並行在来線がJRから切り離される時代になっています。 交通需要を満たすことは新幹線により確保されている、という建前です。しかし駅の数も、列車本数も、運賃も、在来線と新幹線とでは全く違いますから、同じサービスが提供されているという訳ではないでしょう。

新幹線にフォーカスして、採算のとれない在来線は廃止するということを続けていたら、鉄道網は「ネットワーク」にならなくなってしまうのではないでしょうか。

美術作品(絵画)とコンテキスト

美術館に行くと、たくさんの絵画が展示されています。展示されているのは絵画だけではありませんが、ここでは絵画を考えます。

額に収められた絵画は、それだけで単独の作品として見做され、原所有者の壁(もしくは保管庫)から美術館の壁に、自在に移動されて当然と思われるかもしれません。しかし、本当にそうなのでしょうか。

大聖堂の壁を飾ったステンドグラスや宗教画は、元々の建物の中に配置されていることが、その存在を形作っていたのではないでしょうか。貴族や王侯の肖像画は、その王宮や館の然るべき部屋の壁に飾られていたことが、その存在を意味づけていたのではないでしょうか。

そのようなコンテキストから切り離して、作品だけを単独で美術館に並べていることで、鑑賞する態度が変わってくるはずです。

作品を鑑賞する時の細々な諸条件を全て含めて100%とすると、作品のオリジナルの環境が与える影響は微々たるものかもしれません。オリジナルの環境で鑑賞しようが、美術館で鑑賞しようが、作品そのものが持つ魅力は、何も変わらないのかもしれません。

例えて言うなら、音楽を鑑賞するために、ライブで鑑賞しようが、LPで鑑賞しようが、CDで鑑賞しようが、音楽そのものの魅力に変わりはないというようなものではないでしょうか。CDはデジタル化するために高周波成分を切り捨てています。それは人間の耳には聴こえないというのが理由になっています。しかし高周波成分は、耳では聴こえないかもしれませんが、人間はそれを感じることが出来るという研究があります。CDよりもLPの方が音がよいと主張するひともいます。

同じようなことが美術作品にもあるのではないかと思うのです。

T字路の交通信号機は何のために?

この写真は憲政記念館の前のT字路で撮影しました。撮影場所は、歩道です。道路上ではありません。写真には赤信号が写っていますが、この交通信号機は、なぜあるのでしょうか。別の言い方をすると、誰が見るためにあるのでしょうか。歩行者用信号機は別にあるので、歩行者ではなさそうです。ここはT字路なので、この信号を見て停止する自動車が存在するとは思えません。不思議です。

第三の反論

ナショナルジオグラフィックチャンネルで先日まで放送されていた「マーズ 火星移住計画 2」は、フィクションとドキュメンタリーを重ね合わせた作品でした。とても面白い番組でしたが、番組中にジャレド・ダイアモンドが登場していたのを目にし、彼の有名な作品を前々から読んでみようと思っていながら先延ばしにしていたので、図書館で借りて読んでみることにしました。

ジャレド・ダイアモンドというと『銃・病原菌・鉄』を思い出しますが、『文明崩壊』も図書館にありました。どちらも読んでみようと思っていますが、どちらを先にするか迷ったので、まず両者の上巻を借りてみて、読んだ感じで決めることにしました。その結果、まず『文明崩壊』を先に読むことにしました。

『文明崩壊』 では、その原因を文化人類学的な見地から考察しているので、もっと違うアプローチを期待していた読者には迂遠に感じるかもしれません。

「第2部 過去の社会」の「第2章 イースターに黄昏が訪れるとき」では、イースター島の「環境被害の一因は島民自身にあるという説に対し、具体的な反論もしくは別意見がこれまで三件提起されている」と記されています。その3番目には次のような一節があります。
わたしはよくこんなふうに自問した。最後のヤシの木を切り倒したイースター島民は、その木を切りながら何と言っただろうか、と。現代の伐採業者のように、「これは仕事なんだ。木じゃないんだ」?あるいは、「テクノロジーが問題を解決してくれるから、心配はいらない。木にかわるものが見つかるさ」?あるいは、「もうこの島には木がないと証明されたわけじゃないんだから、もっと探してみないと。伐採を禁止するなんて早計だ。悲観論に踊らされているんだよ」?不用意に環境を損なってしまった社会については、例外なく、同じような疑問が取り沙汰される。

現代社会でも環境問題は世界中に幾らでもあります。その最たるものが「気候変動(地球温暖化)」でしょう。環境問題に関する個人の影響力は無きに等しいでしょう。誰か特定の一個人が地球全体の環境に一撃を与えるというようなことは、まずありません。だからこそ、多くの人は、環境問題は自分とは無関係だと思っています。または自分の行為が問題の一因だとは考えていません。先に引用したイースター島民が言ったこと(別に本当に言ったわけではないでしょうが)は、今日の我々が誰しも思っていることです。

環境問題が悪化して二進も三進もいかなくなった時、 そのときどんな光景が待っているのか、誰も想像できていないだろうと思います。多くの人が「自分には関係ないから、考えない。考えるのは、考えなくちゃいけない人の責任だ(それは自分じゃない)。その人がなんとかするだろう。」と思っているのかもしれませんが、それで済むとは思えません。

2019/03/24

絵画が描くもの

自分自身の中ではっきりと考えがまとまっている訳ではないのですが、断片的であっても書いてみることで自分の考えに道筋をつけていきたいと思っています。

絵画が何を描いているのか、ということを、美術館で作品の前で向かい合ったときに考えます。絵画作品と言っても、日本画も洋画もありますし、宗教画、人物画、風景画、静物画、抽象画など、ありとあらゆるジャンルがありますから、一言で語れるようなものではないと思います。今後も折に触れて考えていきたいと思いますが、とりあえず抽象画ではない具象的な西洋画を素材とします。西洋画といっても画風が日本画ではないという意味であって、作者が日本人であっても構いません。

聖書や神話を題材とした宗教画であれば、その構図は現実に見た何かを表しているわけではないのは自明でしょう。しかし時代が下って、人物画、風景画、静物画となるとどうでしょうか。

特に人物画であれば、歴史的に著名な人物であれば、それがその人物であることは間違いない訳です。もっとも写真ではないので、描かれているのが本人そっくりかどうかは、作者の技量に依存するところはありますが、おそらく本人に似せて描いていると信じるしかありません。写真が無かった時代の本人の姿を知るすべはないからです。

しかし、ここで、ふと疑問に思うのです。写真と違って、絵画は、正確な描写(をしているつもりかもしれませんが) よりも、意図的か意図せずかは別にして、作者による省略や誇張が避けられないはずです。作者が意図的に絵画の中に加えた表現は、鑑賞者が理解することができるのでしょうか。

鑑賞者が理解できるかどうかという問題は、容易に解決できるとは思いませんが、考えても仕方がない問題ではないと思っています。きちんと答えを出すには、作者の意図を解き明かす研究が必要となるでしょうから、一朝一夕に分からないかもしれませんが、それはそれで良いのです。考えていく姿勢と、そのために必要な手掛かりが欲しいのです。

絵画作品そのものを解説する書籍は数多ありますが、個々の作品の解釈を超えた抽象的な理解の参考になる書籍は少ないようです。絵画作品を見つめる眼差しを学ぶ書籍(多少は手元にありますが)を見つけて、美術館で目にする作品をより深く自分のものにしたいと願っているのです。

2019/03/20

平成31年度

平成という年号が使われるのは、2019年4月までです。次がどのような年号になるのかに関心が集まっています。ふと考えると、日本には「年号」の他にも「年度」というローカルルールがありますが、4月からの「年度」がどうなるのかが気になります。

昭和が終わって平成が始まったのは1989年1月8日のことでした。そのときは「昭和63年度」でしたが、平成元年1月8日から3月31日までは「昭和63年度」が継続していて、あまり違和感はありませんでした。

平成が終わって次の年号が始まるのは2019年5月1日の予定です。そのときは「平成31年度」のはずですが、平成31年なのは4月だけです。5月から翌年3月までの11ヵ月間は新年号ですが、あいかわらず「平成31年度」になるのでしょうか(多分)。

年度が途中で変わるというのは聞いたことがありません。しかし、変えられない規則があるのか、無いのか不明なので、もしかすると、「平成31年度」なのは4月だけで、5月からは「(新年号)元年度」になるのかもしれません。

「年号」というのは(今となっては)日本だけのローカルルールだから廃止すべきだという論調がありますが、その他にも、「年度」もそうかもしれません。もっとも「年度」の場合は、「年度」自体は良いとしても、「元号年度」には不具合があるということかもしれません。「西暦年度」にしていく方がよいのかもしれません。

2019/03/19

improveの他動詞と自動詞

手持ちの辞書(『アクティブ ジーニアス英和辞典』大修館書店、2000年4月1日再版発行)では、improveの日本語訳として次のように書いてあります(先頭語義のみ)。
  1. 【他動】 [SVO]<人が>(不足などを補って)O<物・事>を改良する、改善する 
  2. 【自動】[SV(M)]<人・商売・事態などが>〔・・・の点で〕良くなる、好転する、改善される
この時に、例えば、「君の助言が僕の英語を改善させた(改善させる)」という意味のことを表現したいとすると、英語ではどのように表現するのでしょう。
  1.  You improved my English skills.
  2.  My English was improved (by you).
  3.  My English has been improving (with your advice).
上述した1と2は、能動か受動かということですが、3は自動詞(のつもり)です。これらの英文をgoogle翻訳で日本語にしてみると、どの英文でも似たような日本語文になります。google翻訳の英和変換を通して英文を理解するのは、誤解の原因となり得るので避けるべきなのかもしれません。

ネイティブに尋ねれば一発解決なのかもしれませんが、自力で感覚を掴むには、どういうアプローチをすれば良いのでしょうか?

2019/03/18

dynabook SS SX 15/Aを途中まで分解

dynabook SS SX/15Aは、購入時はWindows Vista Businessが入っていましたが既にサポート期間が終了しているので、NetBSD/i386に入れ換えて使用しています。その経緯については、これまでも書いてきたとおりです。

旧いのでCPU能力は見劣りしますが、たまに持ち運んで使う分には困るということもありません。しかしHDDが劣化しているのではないかと気になっていて、できれば交換したいところですが、入手性がよくない特殊なHDDが使われているので、交換するのは諦めています。HDDを交換しないとしても、内部に埃が溜まっているのではないかと心配しており、開けて掃除したいとは考えていました。しかし問題は、開け方が分からないことでした。

 Webを検索してみると、次のような情報が見つかります。しかしながら、そこで注記されているように「コメントの指摘により気づいたのですが、私が使っているのは「dynabook SS SX/15A」ではなく「dynabook SS SX/15AE」でした」ということです。
僕が所有しているdynabook SS SX/15Aを分解した記事は見つからず、一般的な分解方法を参考にしながら、挑戦してみました。完全に裏蓋を開けることはできませんでしたが、なんとなく様子は掴めた気がします。

まず初めに、裏蓋から見えるネジを全て外してみました。機種によっては、これだけで開いてしまうものもあるようなのですが、dynabook SS SX/15Aは駄目でした。ドライバを隙間に入れて、こじ開けようとしても、まだ何かでとめられている感じです。無理をして致命的なダメージを与えてしまうと悲惨ですから、用心します。

LCDとの接続部分にもビスがあるので外してみましたが、開きませんでした。

そこで表面に戻り、ビスの在りかを探してみましたが、それらしい箇所が見つけられませんでした。諦めるしかないのか、と思いながら、キーボードの下部にある「TOSHIBA」と印刷されたプラスチック製のパネルをこじ開けてみると、その下にキーボードを固定しているビスが見えました。キーボードを固定していたビスを外し、そっとキーボードを持ち上げると、その下には固定しているビスが見えました。これを外せば良さそうです。

そこに見えているビスを外すと、裏蓋が以前よりは大きく開くようになりましたが、まだ何処かでとめられていて、完全には開きません。それでも内部は確認できるようになったので、エアジェットで内部の埃を吹き飛ばしておきました。

もっと完全に開けられれば良かったのですが、開けたところでHDDを交換できるわけでもないので、この辺りで止めておくことにします。随分前から、開け方が不明で悩んでいたのですが、すっきりしました。

2019/03/17

英作文の入り口

書店に行って英作文の棚を眺めると、いろいろな切り口の書籍が売られています。大学受験のための学参書と、英検受験や社会人向けの書籍とでは、多少方向性に違いがありますが、初心者用から上級者用まで幅広くあります。しかし自分自身が求めているものとは、どうも違う気がするのです。

例えば学参書だと、英作文と言いながら、入試問題に出題される穴埋め問題とか語順訂正問題レベルだったりします。受験対策にはなるかもしれませんが、英文を書く能力に繋がるのだろうかという疑問を感じます。

社会人向けだったりすると、(日本語で書く場合でも役立つような)論述の段落建てなどの構造を整える話題だったりします。それはそれで大切ですが、もうちょっと手前で困っている役には立ちそうもありません。

そもそも単語不足や語法不足で英文が書けないと考えているのです。また発想方法が、日本語と英語とでは、そもそも違うのではないかとも思っています。日本語で発想して、直訳的に英単語を並べても、英文っぽくはなると思いますが、本当に英文になるのかは大いに疑問です。つまらない例ですが、日本語で言うところの「お疲れ様です」を、英単語を並べて「You must be tired.」としても、英文ではないという感じでしょうか。

書いた文章をネイティブに見てもらえばよいといわれますが、そのような指導者が簡単に見つかる訳ではなく、うかつに真に受けるわけにもいかないと思います。なんとか自学自習できる方法を見つけ出したいと思います。

不動点

放送大学共用学部で4月から「微分方程式('17)」を受講する予定です。昨年4月からは「入門微分積分('16)」を受講し、既に単位取得済みではあるのですが、残念ながら理解が十分とは言えません。理解の程度を度外視すれば、恐らく「微分方程式('17)」も単位を取得できるかもしれませんが、それで何の意味があるのだろうか、と自問します。微分や積分という概念がわからないわけではありませんが、問題がスラスラ解けるというわけではないし、印刷教材に書いてあることが良く理解できたわけでもありません。というわけで、去年受講した「入門微分積分('16)」の復習をしています。

理解が不足している事項は多々あるのですが、そのひとつが「不動点」です。印刷教材の「3 単調関数・逆関数」の「課題 3.C」には「関数f(x)=x^2 - 5/4を2回合成させて動かない点を求めよ」とあります。「動かない点」というのが要するに「不動点」ということらしいのですが、関数における不動点というのが概念的にわかりません。

微分に関する書籍には「不動点」について書いてありますが、たいていは以下のような感じです。ここで引用しているのは平凡社の世界大百科事典にあった記述です。
Xを集合とし、fをXからX自身への写像とする。Xの点Pに対しf(P)=Pが成り立つならば、Pをfの不動点、または固定点という。
ここにあるようにf(P)=P(もしくはf(P)-P=0)となるように計算すれば、表面的には問題が解けます。計算のテクニックがあるとしても、計算すること自体は難しいということもありません。

しかし「f(P)-P=0となるPを固定点と呼ぶ」と言われても、「それで?」としか思いません。概念がスッキリしないのです。「不動点」というのは、いろいろと応用の効く概念らしいのです。スッキリしませんが、納得できるように考えていこうと思っています。

2019/03/10

マーズ 火星移住計画 2

ナショナルジオグラフィックチャンネルで2019年2月から「Mars 火星移住計画 2」というドラマが放送されています。2017年2月頃に放送されていた「Mars 火星移住計画」の続編です。近未来のストーリですからSF物ではありますが、只のSF作品であるだけなら、別にナショナルジオグラフィックが制作しなくても良いわけです。「人類が火星に行く」というテーマを扱う作品でありながら、現在の地球環境や資源開発との関わりを投影しているあたりが、ナショナルジオグラフィックでなければ制作できなかった特徴と言えるでしょう。

未来の火星と現在の地球における資源開発や国際情勢、さらには巨大企業との関わりを、行き来しつつストーリーが展開する視点は、とても示唆に富みます。火星で人類が暮らしていくという問題は、(現時点では「行くことが出来るだろう」という段階にすぎないので)技術的な側面に関心が集中しています。しかし「行くことが出来る」のは(今日の自動車や飛行機でも事故が避けられないように、火星に行くことのリスクはあるとしても)当たり前の時代がくれば、人間の集団による社会が成立していく中で、多様な利害が交錯していくのでしょう。それは今日の地球であろうが、未来の火星であろうが、おそらく変わらないと思います。

さらに興味深いのは、火星に移住した近未来のドラマを視ているなかで、今日の社会問題の一端に気付かされることです。本当に人類は火星に移住できるのだろうか、それは数十年後なのか、100年後なのか、それとも数百年後なのか、正確なところは分かりません。しかしそこに出来上がる社会は、今日の社会秩序や国際情勢の延長線上となるでしょう。未来の火星が桃源郷となることを夢見るのは自由ですが、今日の社会とは全く異なる世界が誕生すると考えるのは、夢物語だろうと思います。

2019/03/09

McAfeeによってFirefoxが隔離されてしまった

あるアプリケーションを使おうと思って起動したら、起動時に更新の確認がおこなわれたようで、「新しいバージョンに更新しますか?」というダイアログが出ました。ほとんど無意識に「はい」を選択したのですが、更新作業のような画面も出てこず、起動しようとしたアプリケーションの画面も出てきません。どうしたんだろうと思っているうちに、なぜか起動していたFirefoxの画面が消えてしまいました。

一瞬の出来事で、いったい何が起こったのか理解できませんでしたが、セキュリティ対策としてインストールしておいたMcAfeeが「ウィルスを検出したので云々」というメッセージが出てきました。おそらく誤検出だと思うのですが、いずれにせよ、それは更新しようとしたアプリケーションのことであって、Firefoxが何故巻き添えをくらうのでしょうか。慌ててスタートメニューからFirefoxを起動しなおそうとしましたが、既に実行ファイルが消えていて、もう立ち上がりません。

McAfeeが隔離した実行ファイルを復元すれば良かったのですが、滅多にある事ではないので、その手順がわかりません。Firefoxが消えたとしても、Edgeなどがある訳ですからWeb検索はできるはずなのですが、冷静さを失っていたせいか、Firefoxを再インストールしてしまいました。

とりあえずFirefoxは起動するようになったのですが、新規インストール扱いとなり、これまでの設定やアドオンが全て消えてしまっていました。慌てると余計に事態が悪化するといわれますが、まさにその通りになりました。

デスクトップをよく見ると、「Old Firefox Data」という謎のフォルダが出来ています。また日頃からバックアップはとるようにしていたので、そこからファイルを取り出すこともできるだろうと思いました。

気を落ち着けて、デスクトップにできた謎のフォルダについて調べてみると、これはFirefoxプロファイルフォルダーの直前の状況のコピーのようです。Webにある情報「【firefox】「Old Firefox Data」というフォルダが自動作成⇒設定がすべてリセットされてしまった時の対処、復旧方法」では、「about:support」 で表示される「トラブルシューティング情報」にある「プロファイルフォルダー」の中に全部コピーすれば復旧するとのことでした。その説明のとおりにやってみたのですが、誤操作があったのか、復旧しませんでした。

考えた挙句、Firefoxのプロファイルのあるディレクトリ「 C:\Users\FURUSAWA\AppData\Roaming\Mozilla\Firefox\Profiles」には、新しく出来たプロファイルと、以前のものと思われるプロファイルがあったので、以前のプロファイルの名前を、新しいプロファイルの名前に変更してみることにしました。これで、ひとまず以前の設定が蘇りました。

やれやれ復旧したかと思ったのですが、念のために動作を確認してみると、どうも様子が以前とは違います。どうやらアドオンが動いていないようです。アドオン情報を参照してみても、以前に追加したものがリストされていますし、「有効」になっているようなのですが、でも動いていないようです。

これを解決しなければなりませんが、力業ではありますが、いったん全て削除し、改めて追加するという方法をとりました。追加しているアドオンは3つだけですし、各アドオンの設定項目も変更なしだったので、こういう手段でもなんとかなりました。

以上の作業で、やっと元に戻ったようです。作業時間はたいしたことはありませんでしたが、冷や汗をかきました。

2019/03/08

Emacsの初期化ファイルとinit-loader.el

Emacsの環境を初期設定するファイルは、僕がEmacsを使い始めた頃は.emacsでしたが、現在は.emacs.d/init.elが使われる傾向にあるようです。過去との互換性のために以前のものでも構わないようですが、今風のファイルに移行していくようにした方が望ましいのかもしれません。

昔はNEmacsだとか、Muleとか、派生したバージョンを使うこともありましたが、今となっては本家のGNU emacsしか利用しなくなっています。ただしOSや文字コードなどの扱いには、個々の環境に合わせる必要があります。今となっては使わなくなった設定を整理し、今後のことも考えて、使いやすくしておこうと考えています。

どんなOSでEmacsを使っているかと思うと、結局は次のような環境だけでした。
  1. FreeBSD
  2. NetBSD
  3. Windows10 WSL上のUbuntu
  4. (VirtualBox上のCentOSなど)
古いEmacsのことは想定せず、最新か最新に近いEmacsで使えれば良いと思っています。ただしOSや環境に依存して、利用するアプリケーションの有無が違う可能性があるので、それに対処しておきたいとは思っています。つまり入っていないアプリケーションの設定があるが故にinit.elが止まってしまうのは困るということです。

Webを検索すれば、Emacsでinit.elを構成する話題が数多く見つかりますが、そこで言及されるものとしてinit-loader.elがあります。OSの/etc/init.dで見かけるファイル群のように、機能ごとに初期設定ファイルを分割し、ファイル名の先頭に番号を付加することで順番を制御しようとするようです。支持する人がいる反面、必要性に疑問を呈する立場も見受けられます。

いったいどのようなものか調べてみて、僕としては次のような感想を持ちました。
  1. 機能ごとに初期設定ファイルを分割するというのは悪くないと思う。
  2. 実行順序を制御するため、ファイル名に番号を付加することにも抵抗はない。
  3. 亜流が多くて、どれを使えば良いのかわからない状態なのは困る。
  4. Emacsのパッケージ制御でインストールできるようだが、標準的なパッケージのリポジトリには入っておらず、追加的なリポジトリを設定しておく必要があるのは、ちょっと困る。
  5. 環境依存の制御もできるらしいが、Mac、LinuxやWindowsの対応しかなく、BSD系OSが含まれていないのは、不満を感じる。
このように良し悪し拮抗しています。あえて使うほどのこともなさそうですが、あればあったで便利そうではあるので、ものは試し(これも経験だと思って)使ってみようかと思います。

2019/03/02

freebsd-update -r 12.0-RELEASAE upgrade

現在昔懐かしいGatewayのノートPCでFreeBSD/x86を使っています。もう20年以上も前の製品なので、CPUも旧い(Pentium III)し、メモリも少ない(300M弱)ので、化石のようなマシンです。しかしGUIを利用していないし、電源を切らずに24時間×365日運用していますが、あまり問題はありません(あくまでも「あまり」です。問題が「全くない」わけではありません。)。

いろいろとガタがきていることは確かですし、FreeBSDがバージョンアップできなくなりました。CPUがSSE2をサポートしていないのが原因のようです。 いよいよ更新の時期かもしれないと思い、ThinkPad Edge E530cを入手して、移行作業を行っています。しかし慎重に事を進めようと思っているうちに、なんと2年弱もたってしまいました。

当初インストールしたのはFreeBSD/amd64 11.1-RELEASEでしたが、既に12.0-RELEASEが出ています。GatewayのFreeBSD/x86では、SVNリポジトリから毎日ソースファイルを取得していて、時折全コンパイルして入れ換えていました。しかし今なら「freebsd-update」を使ってバイナリ更新をするのが、お手軽かもしれません。今後の練習として、バージョンアップを行ってみました。所々困った点もありましたが、ほぼ順調に更新し12.0-RELEASEになりました。2時間弱くらいで作業が済みました。

手順は次の通りです。Webの情報「FreeBSD 11.2 を FreeBSD 12.0 に更新」と『FreeBSDハンドブック』の「第17章 FreeBSD のアップデートとアップグレード」を参考にしました。
  1. freebsd-update -r 12.0-RELEASAE upgrade(17:25:25~18:14:45)
  2. freebsd-update install(18:14:55~18:15:51)
  3. リブート
  4. freebsd-update install(18:23:53~18:46:18)
  5. pkg-static upgrade -f(18:46:57~19:18:08)
  6. freebsd-update install(19:18:42~19:19:43)
更新後にハンドブックの「17.2.4 システム状態の比較」に書かれている検査を行ってみました。まだインストール直後に近い状態の筈なので、あまり変更箇所はありませんでした。ユーザやグループは追加しているので変更箇所として検出されても納得するのですが、/etc/ntp.confは何だったかなというところです。

/etc/group
/etc/hosts
/etc/master.passwd
/etc/motd
/etc/ntp.conf
/etc/passwd
/etc/pwd.db
/etc/spwd.db
/etc/sysctl.conf
順調に移行できたので良かったと思います。ただし、最初に「freebsd-update -r 12.0-RELEASE upgrade」 を実行した時に、最後に次のようなメッセージが出てきます。ここで、それぞれ対象となるファイルがmoreで出力されるのですが、あまりにも長いファイルなので、うんざりしました。いちいち確認するのを止めてしまえば良かったのでしょうが、最初なので律義に全部見ようと思ったのが間違いでした。
The following files will be removed as part of updating to 12.0-RELEASE-p3:
The following files will be added as part of updating to 12.0-RELEASE-p3:
The following files will be updated as part of updating to 12.0-RELEASE-p3: