2018/12/30

報酬 vs 処罰

D・カーネギーによる名著『人を動かす』には次のような記述があります(「盗人にも五分の理を認める」より引用)。
世界的に有名な心理学者B・F・ スキナーは、動物の訓練では、善いことをしたときに褒美をやった場合と、まちがったときに罰をあたえた場合とをくらべると、前の場合のほうがはるかによく物ごとを覚え、訓練の効果があがることを実証した。また、その後の研究から、同じことが人間にも当てはまることが明らかにされている。批判するだけでは永続的な効果は期待できず、むしろ相手の怒りを買うのがおちである。
人が自分を分析して、「褒められて伸びるタイプ」だとか「叱られて発奮するタイプ」とか言っているのをよく耳にします。どちらにしろ、本人がそう思っているのであれば、他人が「それは違う」とか口出しすることではないでしょう。

しかし指導的立場にある人物の場合は、どうでしょうか。こちらでも、「褒めてやる気を出させる指導方針だ」とか、「指導では徹底的に辱めて、そこから立ち上がってこない奴は使えない」とか、いろいろあるようです。指導方針にも他人が口出しすることはできません。

指導する側と指導される側とでは力関係がアンバランスであることを忘れ ないで欲しいと思います。

それも「帰省」なの?

2018年も残り少なくなり、報道による「帰省ラッシュきょうも 各交通機関で混雑の予想」らしいです。このようなニュースでは枕詞のように使われていて、ほとんど意識しませんが、よく考えると気になる表現があります。

NHKがテレビやラジオのニュースで読む原稿は、NHK NEWS WEBでも見られます。先に例示したニュースは、次のように始まります。
年末年始をふるさとや行楽地で過ごす人たちの帰省ラッシュは30日も続き、各交通機関で混雑が予想されています。
「ふるさとで過ごす」のは「帰省」でしょうが、「行楽地で過ごす」のも「帰省」なんでしょうか。「帰省」というのは「郷里に帰ること」 なので、「行楽地」に向かうのは「帰省」とは違うでしょう。

「帰省ラッシュ」ではなくて「年末ラッシュ」であり、年明けは「年始ラッシュ」とでも呼べば問題ないと思うのですが、そういう訳にはいかない理由があるのか、疑問がつきません。

「逆ギレ」という言葉

「逆ギレ」という言葉が使われるようになったのは何時頃からでしょうか。個人的には汚い表現だと感じるので使いたくありませんが、老若男女を問わず使う人は使うようです。もともと「キレる」という言葉があり(これはこれで綺麗な表現とは言えませんが)、その派生として生まれたと思います。

意味としては、叱られている立場でありながら「逆」に「キレ」ているという(意識が発言者にはある)ことでしょう。そもそも「キレる」立場ではないにもかかわらず、その態度は何事かと詰問する意識が、そこにはあります。

「開き直る」という言葉が変質して「逆ギレ」として流通している感じです。

ここでふと思うのは、発言者が相手に対して「逆ギレ」という言葉を使うとき、発言者の意識には「(相手はキレるべきではないのに)逆にキレている(とは何事か、弁えろ)」と思っていることです。それが本当に「逆」なのか、もしかすると発言者が間違っていて「当然の反論」をしているだけなのか、さらには「キレている」(と発言者が思ったこと)がそもそも勘違いなのか、真実はケースバイケースで一般化はできません。

しかしながら確かに言えることは「発言者は『逆』だと思った」という事実です。言葉は人格や意識の奥底を明らかにします。発言者が意識していなかったとしても、口から出した言葉が発言者の心の奥底を表に見せているのは間違いないでしょう。

2018/12/27

国会中継を見ていて気になった「語尾」

別記事を書いている中で「バイト敬語」という言葉の存在を知りましたが、そう言えば国会中継を見ていると発言の中に特徴的な「語尾」があることを思い出しました。同じように感じる人がいるようで、Web上で次のような記事が見つかります。
必ずしも誤用ではないようです(しかし、時には間違った使い方もしているようです)が、TVで見聞きする以外、普段は聞いたことがありません(もちろん使ったこともない)。

NHK放送文化研究所のWebには「「準備してございます」というのは、おかしな言い方なのでしょうか。」という記事があり、森鴎外や島崎藤村、そして坂口安吾の小説の中には出てくる表現のようです。間違いではないし、そのような表現をしていた時代もあるようですが、廃れてきているのが実態でしょう。江戸時代には「~でござる」とか言っていたとしても(時代劇で聞いただけなので、本当にそうなのか不確かですが)、今日の日常会話で使えば、さすがに変だと思います。同じことではないでしょうか。

万葉集の東歌とオリエンタリズム

放送大学教養学部で「『古事記』と『万葉集』('15)」を受講しています。年が明けると単位認定試験が行われます。古事記にしろ万葉集にしろ、学校で学ぶことが多いし、ヤマトタケルの物語など有名な話は子供向けの書籍にもなっていますから、全く知らないわけではありません。しかし通読したことがなく、断片的な知識に留まっています。これを受講したことが、古典的名作を深く知るためのキッカケになれば良いと考えています。

今年最後の講義は「第13章 東歌と防人歌」でした。万葉集の後に編纂された和歌集との大きな違いは、朝廷の名立たる歌人ではない、東国とか防人のような都以外の歌謡が採録されていることだと思います。印刷教材には「当時の東国民謡をそのまま採録したものとは言い難い」(219頁)とあります。東歌や防人歌が『万葉集』に含まれているのは、時代を踏まえた意味があり、単なる「一大国民歌集」(215頁)という訳ではないとのことです。

このような事情があったとしても、『万葉集』にある東歌には「その異域性を一種のエキゾチシズムとして感じさせる意味」(220頁)があり、E・サイードの主張する『オリエンタリズム』と通じる意識があったと述べています。

ここでサイードの『オリエンタリズム』に言及された事に驚きました。NHKで放映されている「100分 de 名著」の特番として「100分 de メディア論」が放送されましたが、そこで中島岳志氏が取り上げた『イスラム報道』(サイード)の一環で『オリエンタリズム』も取り上げられていました。これらの書籍を読んだことは無かった(存在も知らなかった)ので、読んでみようかと思っていたところでした。

一見すると全く異なる分野(古典文学とメディア論)なのに、同じ書籍が参照されていることで、両者が繋がっていることを知りました。多方面に興味関心を持っていると、どこかで繋がっていくのだろうと思います。

~になります

近年間違った日本語として指摘されるのが「~になります」という表現です。これを指摘したのが『問題な日本語―どこがおかしい?何がおかしい?』ですが、2004年の出版ですから、もう15年ほど前のことになります。しかも出版された時点では既に問題視されていたわけですから、この現象は約20年(もしくは、さらに長く)続いているということになります。

これ以外にも気になる表現がありますが、まとめて「バイト敬語」と呼ばれているようです。

話を戻して、「~になります」が気になるのは、「何かに変化する」という含意がある表現である事や、何故「~です」を使用しないのかという事です。上述した書籍で事例としてあげているのが、食堂で耳にする「こちらきつねうどんになります」です。何故「こちらきつねうどんです」と言わないのだろうかという疑問です。

この件に限らず日本語表現の話題では、「それは方言だ」とか、「言葉は変化していくものだ」、「文法的に問題はない」などの擁護意見が常に現れることです。その指摘が妥当か否かは、ここでは問わないでおきます。むしろ気になったのは、「~です」を「~になります」と表現することと、逆に「~になります」を「~です」と表現することが可換なのだろうかという点です。

この文章の最初で「~という表現です」と書きました。これを「~という表現になります」と書いたら、違和感はありますが、近年の表現の風潮を踏まえると、ありえない表現ではないでしょう。

さらに上述した文書では 「続いているということになります」とも書きました。これを「続いているということです」と書いたら、違和感はありませんが、ニュアンスが変わってくると思います。推敲することでどちらの表現を選ぶか選択することになるでしょう。

つまり「~です→~になります」≠「~になります→~です」という事ではないだろうかと思いました。もう少し事例を集めて考えてみたいと思います。

2018/12/26

巨人の星やアタックNo.1に対するキャプテン翼

1960年代後半に登場した「巨人の星」や「アタックNo.1」に対して、1980年代前半に登場したのが「キャプテン翼」です。これらの作品は漫画として登場し、アニメ化もされました。その当時の子供たちの人気スポーツにもなっていたと思います。人気スポーツだから漫画作品が生まれたのか、漫画作品があるから人気スポーツとなったのか、結局のところ因果関係は双方向だと思いますが、時代を反映していることは間違いないでしょう。

野球でもバレーでも、もちろんサッカーでも、選手は各々のポジションがあり、その守備範囲を中心でプレーするのが本来の役割です。しかし守備範囲から一歩も動かないという訳でもなく、臨機応変にフィールドを動き回ることになります。

しかし野球(やバレー)とサッカーは大きく違うところは、守備範囲から離れる距離ではないでしょうか。つまり野球であれば、レフトを守っている選手が、ライトや一塁などに行くことは、ほぼ無いと思いますが、サッカーであれば、ボールの移動によっては、サッカーコートの中を何処へでも移動してプレーする可能性があるでしょう。

しかもプロ選手であれば守備範囲と自分の役割を考えて行動するはずですが、 小中学生くらいの子供なら守備範囲も役割も無関係にフィールドを動き回っているように思います。これはサッカーなどでは顕著で、ボールの飛んで行くところに子供たち全員が集まります。だからサッカーコート上では、子供たちが集まっているところと集まっていないところの分布の差が大きく、突然ボールが空白地帯に飛んでいくと、そこへ向かって子供たちの集団が殺到していくという光景を、学校の校庭で繰り広げられているのを目にします。

ところで、会社で行われている大小のプロジェクトはどうでしょうか。メンバーには各々の役割分担があるはずです。しかしプロジェクトの進捗や目標は、サッカーのボールのように、誰の目にもはっきりと見えている訳ではありません(「見える化」というスローガンを掲げていたとしても、本当に「見えて」いますか?)。 もしかしたら小学校の校庭で繰り広げられているサッカーのように、メンバー全員が「見えている」と思い込んでいる目標に殺到し、他のフィールドが空白地帯になっていないでしょうか。

「見たいもの」や「見えやすいもの」ばかり見ているのではなく、「見えにくいもの」を見ようとしていく日々の積み重ねが大切だと感じています。「見えないもの」なんて存在しないと見くびるのではなく、「見えないもの」がある(はずだ)と考えていくところの先に答えがあるような気がします。

2018/12/23

「本質」は「形」

NHK Eテレで放映されている「100分 de 名著」の2018年12月のテーマはスピノザのエチカでした。別売テキストには次のようなことが書かれています(40頁)。
古代ギリシアの哲学は「本質」を基本的に「形」ととらえていました。
どういうことなんだろうと思いましたが、先を読むと次のようなことが書かれています。
つまり、家畜化された馬が持っている力と、シマウマが持っている力はその性質が大きく異なっている。力の性質に着目すると馬とシマウマはまるで別の存在として現れます。にもかかわらず、私たちはそれらを形でとらえるから、両社を同じく馬だと考えるわけです。
言わんとしていることが分かってきました。さらに先には次のようなことも書かれています。
「たとえば農耕馬と競走馬とのあいだには、牛と農耕馬のあいだよりも大きな相違がある。競走馬と農耕馬とでは、その情動もちがい、触発される力もちがう。農耕馬はむしろ、牛と共通する情動群をもっているのである」(『スピノザ 実践の哲学』前掲)。
本質を形で捉えると、農耕馬と競走馬はつまりは馬だ、ということになります。しかし性質で捉えれば、農耕馬と牛は同じものだ、となるのでしょう。しかし私たちは農耕馬と牛が同じだとは考えにくいのです。

上述したのは一例にすぎません。より開かれた見方ができるようにしていきたいと思いますし、そのための示唆を得られたと感じます。

指示待ちではなく、自ら動ける方

2018年12月16日付The Japan Times On Sundayにジャパンタイムズの社員募集広告が掲載されていました。そこに書かれていたのが、標題に書いたことです。どこの会社であっても同じ方針だと思いますし、「指示待ち」を積極的に募集する会社は存在しないと思います。

このような事に限らず、どこの組織でも何らかの評価基準があって、それに基づいて評価されると思います(建前としては)。評価されるタイミングで、泥縄式に評価基準を(後付けで)作って評価されるのでは、怖くてやっていられません。評価される時点で、いきなり聞いていなかった評価基準が提示されるような状況では、評価が恣意的になる恐れがあり、公平とは言えないでしょう。このような状況が現実に存在するのか、もしくは存在したとしても公には存在するとは言えないのか、なんとも言えませんが、ふと脳裏に浮かんだのは、車を運転する際のウィンカーを出すタイミングです。

車がウィンカーを出すのは、車線を変えるとか、左折(もしくは右折)する何秒か前です。自動車教習所では厳しく教えられますが、公道を走る車がウィンカーを出すタイミングは、そうではないようです。車の運転者は既にハンドルを切っていて、車線変更が始まってから申し訳程度にウィンカーを出すだけという運転をしている車は少なくありません。ウィンカーを出さずに車線変更をするよりはマシですが、何のためにウィンカーを出しているのか理解しているとは言えないでしょう。

評価基準とウィンカーは、突拍子もない連想のようですが、根は同じところにあるように思えるのです。

平成の次の年号は何?

もうすぐ2018年は終わり、2019年を迎えます。西暦は今後も年を重ねていきますが、「平成」という年号は来年後半には無くなっています。いったい年号は何になっているのでしょうか。

日本で年号が使われるようになったのは「大化」からですが、明治よりも前は天皇の代替わりとは無関係に改元されていました。何か凶事があったりした時に気持ちを新たにするために改元されたりしていました。それを明治以降は天皇の在位と元号を合わせている訳で、日本に元号が導入される前の状況と同じになっています。要するに「推古天皇の御代の3年目」のような考え方になっているわけです。

社会の変化と天皇の在位が同期していれば良いのですが、そういう訳にもいきません。明治時代はどうの、大正時代はどうのと言ったところで、改元に合わせて社会や文化が変化するわけではありません(影響は受けるとは思いますが)。

いっそのこと社会の大きな変化で改元しても良いのではないかとも思います。例えば昭和20年は日本にとって大きな節目なので、そこで改元するわけです。例えば昭和20年を戦後元年とするとか、バブルが崩壊して「失われた十年」とか「失われた二十年」とか呼ばれているので、バブル崩壊の年を失われた元年(元号を漢字二文字とするのも止めるわけですが)とするのです。

ここで書いたのは半ば冗談です。はたして新しい年号は何になるのでしょうか。

教育観の違い

2018年12月21日付The Japan Times Alphaに掲載されている「3-minute Reading With Kip」に次のようなことが書いてありました。
In the U.S., children are encouraged to think for themselves, explore the world and learn from their failures.  In Asia, children are shown the "correct" way, then are carefully guided until they master this.
この教育観の差異は、絶対的という事ではなく、そのような傾向があるという意味だと思いますが、確かにその通りかもしれません。

よく日本人は完璧主義で、失敗を恐れて行動しない(できない)と言われます。失敗から学ぶためにも、まず行動すべきだという意見を耳にしますが、いざ失敗すると非難が怒涛のように飛んでくる面もあります。行動して非難される(出る杭は打たれるという諺もありますし)よりも、行動しないで埋没しているのを選ぼうとするのも、やむを得ないとも思います。

悪い面は目につきやすいが、良い面は気付きにくいという事なのかもしれません。

生活

2018年12月21日付のThe Japan Times Alphaに掲載されていた記事「シネマ倶楽部」の中の「これを読めば映画ツウ!」に次のような箇所がありました。
この頃、婚活や終活など「~活」という言い方が増えているが、
学生の就職活動を「就活」と略しているのは昔からだと思いますが、近年「~活」が増えてきているのは感じていました。結婚するために「婚活」、子供を授かるために「妊活」はまだ良いとして(良くない?)、人生の終末期を迎えて「終活」とは、いったい何だろうと思います。

とにかく何でも「~活」なので、いいかげん食傷気味です。そう感じていたところで「生活」を見て、一瞬混乱しました。生きるための活動という事で「生活」かと思ってしまいました。最近は格差が二極化してきていて、生活が苦しいと訴える人も少なくないので、そういう人達にとって「生活」は大切なことなのかと思ってしまいますが、よく考えると「生活」って昔からある単語でしたね。

2018/12/07

「いただきます」の倫理

国立民族学博物館が友の会会員に送付する「月刊みんぱく」の208年11月号(通巻494号)の巻頭エッセイ「千字文」は「「いただきます」の倫理」(伊勢田 哲治)でした。その内容を紹介したい訳ではありませんが、文末に書かれている意見には考えさせられました。そこだけを以下に引用します。
こうした出所のはっきりしない考え方がわずか十数年で現在のように流布していることを考えると、「『いただきます』 の倫理」は日本人の根深い動物倫理観と結びついていると思われるし、(以下略)
私がエッセイで論じられた内容に同意するかどうかという事ではなく、引用した文の先頭にある「出所のはっきりしない考え方がわずか十数年で現在のように流布している」という点に強く引き付けられました。話しが飛ぶと感じられるかもしれませんが、この文を読んだ時に私は、ここ数年で「電子メールのマナー」とされている(らしい)ことを思い出しました。

どのようなことなのかというと「電子メールは日中に送信する のがマナー」だというようなのです。もうすこし説明すると、日中というよりは「就寝中に受信するのは許されない」ということらしいです。何故かというと「就寝中にスマホ(もしくは携帯)の着信音が鳴ると、安眠を妨げる」からなのだそうですが、私自身はナンセンスだと感じます。

電子メールをスマホ(や携帯)で受信するか否かは受信者の志向にすぎず、PCで受信するユーザだって相当数いるはずです。さらにスマホ等で受信するとしても着信音が鳴るかどうかだって受信者の設定状況にすぎません。着信音がうるさくて就寝中に目が覚めてしまうなら、鳴らないようにしておけば良いのではないかと思うだけです。

用件がある相手に、電話をかけるのではなく、電子メールを使う判断をするメリットの最たるものは、相手にダイレクトに繋がらないことだと思います。電話だと、その瞬間に相手が何をしていても割り込むことになりますが、電子メールならその心配はありません。着信と同時に相手が電子メールを見て、直ちに反応して、ほとんど電話と変わらないレスポンスが得られるかもしれませんが、それは偶然であって、電子メールのレスポンスタイムにリアルタイム性を求めるのは筋違いです。

電子メールのマナーに関する不思議な言説が流布する背景には、電子メールの送受信をスマホで済ませる利用者が多く(相当多い?)、また日本国内の中でやりとりしているだけであることがあるようです。それはそれで別に構わないのですが、何しろ今はグローバルな時代ですから、日本の裏側にあるような国々とも簡単に電子メールでコミュニケーションできるのです。相手の日中は日本で夜間ですから、「(日本の)日中に受信できるように電子メールを送るべきだ」というのは、とても傲慢な主張と言えるでしょう。

上述の「マナー」が常識と化しているとは思っていませんが、そのようなニュアンスの主張が何かの折に顔を見せるのは経験しています。このような不思議なマナーが登場する根本にも、日本人の奥底にある感覚に起源があるのかもしれません。

2018/12/06

「3Dビューアー」に変わっている!

Microsoft Windows 10のスタートメニューに「3D뷰어」というエントリーが現れ、いったいなんだろうと思っていました。ところが、さきほどスタートメニューを見たら「3Dビューアー」に変わっていました。つまりハングル表記だったのは、ただのバグだったということでしょうか。

これがバグではなかったとしても(個人的にはバグだったのだろうと判断していますが)、その存在を認識し、意識に上らなければ、有耶無耶のうちに問題が通り過ぎても気が付きません。禅問答のようですが、問題か否かに関わらず、意識することは大切だと思います。

2018/12/04

ディスコースマーカーと英作文(または英借文、もしくは要約)

英語(に限らず、外国語一般)を学ぶには、4技能(読む・書く・聞く・話す)をバランスよく伸ばすと良いと言われます。受信技能(読む・聞く)を伸ばすには、英文を読んだり、英語番組などを聴けばよいでしょう(能力がぐんぐん伸びるとは限らないかもしれませんが)。インターネットで探せば、一生かかっても読み切れないほど、聴き終わらないほどの素材が見つかります。

しかし発信機能(話す・書く)を練習するのは大変です。特に「話す」ためには相手が必要ですから、英会話教室に通うなどの方法をとらないと、一人で練習するのは困難が伴います。それに比べると「書く」のは、一人でも出来ることです。書いたものを評価するには誰か指導者が必要にはなりますが、書くだけなら一人で出来ます。しかし「書く」ための練習(それも日々おこなうような基礎訓練)として何をしたら良いのか、なかなか見つけられませんでした。

インターネットで方法を探すと、いろいろな方法が提示されていることは分かります。例えば「日記を書こう」とか「英語の文章を数文で要約しよう」というものが見つかりますし、「グズグズ言わずに、手を動かして英文を書けばよいだけだ」というものもあります。おっしゃる通りではありますが、どうも習慣にならず、最初の一歩が踏み出せずにいました。

何か方法がないものかと考えていたところ、Yahoo知恵袋で「英語の和文英訳が本当に解けません。」を見つけました。この質問のベストアンサーとして選ばれていた回答では、ディスコースマーカーと英借文が勧められていました。 英借文は知っていますが、ディスコースマーカーは初耳でした。

学習参考書ですがZ会から『ディスコースマーカー英文読解』が出ているようです。「ディスコースマーカー」とは、文と文とを繋ぐときの決まり文句のことのようですが、それほど大量にある訳ではないので丸暗記してしまう必要があるようです。

英語学習初級者が練習として書く英文は、小学生低学年が書くような単純な文になりがちです。それを幾つも集めて文章にしたところで、子供っぽさが強く表れてしまいます。そこでディスコースマーカーを使えば、多少はマシな文章に見えることでしょう。

ディスコースマーカーという用語は初耳でした。英語を学ぶ過程で、これまでも見たことはありますが、「ディスコースマーカー」という用語で整理した説明は見た記憶がありません。学参書レベルの文法書でも、話題として取り上げられていないような気がします。

ディスコースマーカーを学べば英作文が出来るようになるという訳でもないと思いますが、英作文が出来るようになる為にはディスコースマーカーを学んでおくと良いと感じています。

2018/12/02

新幹線品川駅のホームドア

新幹線に限らず在来線でも、駅のホームにはドアが設置されるようになってきています。ホームドアのない駅もありますが、今後工事されていくのだと思います。ホームドアの動作は、基本的には、車両がホームに到着し停車してから、おもむろにホーム側のドアが開きはじめ、次に車両側のドアが開き、乗客が乗降する、というのが基本的です。

新幹線もホームドアの動作は同じはずなのですが、(確か)品川駅の新幹線ホームは動作が違います。

新幹線がホームに滑り込んでくると、車両が停止していないのにホームドアが開きはじめます。車両が停止した時には、ホームドアが完全に開いています。だから、車両側のドアを直ちに 開くことができます。車両が停止してからホームドアが開き始めるよりは、乗降できるまでのタイムラグが短くてすむので、一見すると利便性が高い(ような)気がします。

しかし考えてみると、「利便性が(本当に)高い」のなら、品川の新幹線ホームに限らず、在来線などの全てのホームドアでも同様の動作にすれば良いはずなのに、そうなっていないのは何故なのでしょうか。そもそもホームドアは何のためにあるのでしょうか。

昔は(新幹線だって)ホームドアは無かったので、車両がホームに入ってきたり出発していく時に不慮の事故が起きていたわけです。その危険を避けようとしてホームドアが設置されるようになっているので、現状のように車両が完全に停止してからホームドアが開く方が望ましいと思います。